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はなむら しろう

花村四郎

はなむら しろう

1891.8.30(明治24)〜 1963.7.1(昭和38)

大正・昭和期の弁護士、政治家

埋葬場所: 25区 1種 45側

 長野県東筑摩郡川手村(安曇野市豊科光)出身。花村哥吉の次男。父は上川手村の初代村長だったが若くして亡くなったため、母の千恵子が女手一つで五人の子どもを育てた。
 松本商業高校を経て、郷里で弱者の味方の弁護士である翠川鉄三に感化され、自身も弁護士を目指すために日本大学法学部法律科に進学、1917(T6)26歳で卒業。母校の研究室に残り法律を学び、'19弁護士試験に合格し開業した。
 当時は全国各地で小作争議が激発しており、農産物の価格下落で中農や小作貧農の経営が苦しく、多くの小作人は農業を辞め都会へ職を求めに行く人が続出していた。また農家を継続する小作農も高い小作料に悩まされ苦しんでいた。花村ら若い弁護士は小作人の利益擁護のため奔走。香川県大田村伏石の伏石争議で小作人の弁護に当たった。
 この時期、農民運動で全国を飛び回っていたのが浅沼稲次郎(18-1-3-12)や三宅正一であり小作人の応援に当たる。警察当局は公判を有利に進めるため、農民組合の動きを封じる手段に武装警官が配置し、花村ら弁護士はそれに対して警察に抗議を行うも逆に検束され、応援の組合員と留置場に入れられることは日常茶飯事であった。この法廷闘争で弁護士として地歩を固め、'26日本弁護士協会理事に推された。
 同年、郷里の長野県で警廃事件が起こる。警廃事件とは長野県知事の梅谷光貞が行政改革の名を借りて県議会にもはからず岩村田、屋代、中野の三署と、当時県内にあった十六分署も廃止し、これに反対した三町民らが知事、警察部長官舎を襲って知事らを袋叩き、県庁でも大暴れして長野市内を無警察状態にした事件である。この事件で143人が騒擾罪で起訴された。この時、弁護団長になったのが原嘉道(10-1-1)で、少壮弁護士として頭角を現わした花村を弁護団の一人に加えた。
 この事件は政党が介在しており、憲政会の若槻内閣、同党系の梅谷知事が断行した三署廃止であったため憲政会は知事を擁護する立場をとった。これに対して、政友会は三署廃止を反対したため両党の代理戦争的色彩を強めた。花村は原と共に「非はむしろ知事の三署廃止という町民に対する挑戦にある」と弁護。その結果、判決は実刑はわずか6人だけで、64人が執行猶予、60人が罰金、13人が無罪という軽い判決に終わった。この事件を陰から支援していたのは政友会の代議士の鳩山一郎であり、事件を機に花村は鳩山と親交が深まった。
 '27(S2)警廃事件を勝ち取ったことで、36歳の若さで東京弁護士会副会長に選出された。その間、「万朝報(よろずちょうほう)」主筆、高川穂高商講師などを務めた。
 '32鳩山のすすめで政界に進出、東京市議となる。'37東京府議にも当選した。当時は府議と市議を兼職することができた。以来、東京市議に3回、東京府議に2回当選。当時の東京府政・市政の大きな問題は東京オリンピック招致であった。昭和15年の紀元二千六百年を記念して東京でオリンピックを開き、同時に万国博覧会も開催し、東京を一挙に国際舞台へ上げようとする計画である。この運動に熱心であった花村は、東京市のオリンピック招致委員として尽力。しかし、オリンピック招致成功後の日中戦争に伴い、'38返上という悲運となった。軍部の独走による戦争拡大が五輪の決別だけでなく、民衆の声までも届かなくさせている世情に対して、国政への参画の決意を固めることになった。
 '42太平洋戦争さなか総選挙が行われ、東條英機内閣は戦争完遂の名のもとに、政府に協力する代議士で議会を固める翼賛政治体制協議会をつくり推薦候補を決める「翼賛選挙」を行った。政府の方針に反対する自由主義者は翼賛会の非推薦のもとに非国民扱いされた。この政府の重圧にも屈せず、官憲の弾圧を覚悟の上で非推薦組として花村は出馬。他に反対メンバーは鳩山一郎、尾崎行雄、河野一郎らがいた。鳩山の強い勧めもあり東京5区から立候補。同じ区からは後に自由党幹事長になる広川弘禅、後に衆院議長になる松岡駒吉、右翼で著名な児玉誉士夫など23人もが出馬した激戦区となった。結果は最下位ながらもギリギリ当選を果たした(広川、松岡、児玉は落選)。東京府は定員31人のうち、非推薦当選は8人だけであり、全国の当選した非推薦候補者は83人、全体のわずか18%だけであった。
 '45.10終戦後、鳩山が自由党を結成すると合流し、総裁秘書として終始鳩山と行動をともにした。'46戦後第一回目となる総選挙に東京二区から出馬。この総選挙は大選挙区制で行われ、大半の府県が全県一区、東京や大阪など人口が多いところは二区に分かれ実施。出馬した東京二区は徳田球一(19-1-31-2)や鈴木茂三郎などの各党の党首クラスをはじめ、133人が出馬した全国一の激戦区であった。定員12人のうち8位で当選した。
 鳩山が公職追放となったが、第1次吉田茂内閣で文部参与官に就任。文部大臣は東大教授から就任した田中耕太郎で、現在の六・三・三・四制の新学制はこの時に成案された。花村は母子家庭の苦しい学生時代を送ったため、「金が無くとも等しく教育の機会を・・・」と、この新学制実現に情熱を燃やした。
 '47.4.25衆議院議員総選挙に日本自由党公認で東京4区から出馬し当選。次いで、'49.1.23衆議院議員総選挙で民主自由党公認で当選。自由党が圧勝したこともあり、第3次吉田茂内閣では法曹人の前歴が買われ、衆議院法務委員会委員長に抜擢された。
 '52国会内に設けられた裁判官弾劾裁判所長・両院法規委員長に就任した。同年、鳩山ら追放解除。自由党党内は鳩山派と吉田派に分かれ主導権争いが展開され、花村は鳩山派についた。なお同.10.1衆議院議員総選挙に自由党で当選している。
 '53.4.19衆議院議員総選挙では鳩山自由党として東京4区から出馬したが、吉田自由党が対抗馬を2人立て動きを封じにくるも、二人は落選し花村が当選した。鳩山自由党は党の体制を立て直し、三木武吉を幹事長、河野一郎は総務会長、石橋湛山を政審会長、そして花村は議員総会長となり、この四名は鳩山四天王と称された。'54 第1次 鳩山一郎内閣組閣に伴い法務大臣として初入閣。'55.2.27衆議院議員選挙に日本民主党で当選(連続当選7回目)。第2次 鳩山一郎内閣で法務大臣を留任。人権伸張・法務行政の民主化に尽力した。
 '58.5.22衆議院議員選挙に自由民主党公認で東京4区から出馬したが初めての落選。次選挙までは日本商科大学や千葉商科大学の教壇に立ち法理論を教授した。主な著書に『陪審法通義』『独逸弁護士法』『欧州経済統合の経緯とその前途』『最近の欧米をめぐりて』がある。
 '60.11.20衆議院議員選挙に自由民衆党公認で東京4区から出馬し復活当選(8回目)を果たす。鳩山内閣総辞職後は政界の表舞台から退き、自由民主党の相談役として重要政策に参画していた。'62ジュネーブでの第19回ガット加盟各国閣僚会議に日本代表の藤山愛一郎(11-1-2-2)の顧問として出席した。同.11病床に臥し、翌年逝去。享年71歳。正3位 勲1等。

<コンサイス日本人名事典>
<「信州の大臣たち」中村勝実><人事興信録>


墓誌碑

*墓石前面は「花村家之墓」。左側に花村四郎の略歴等が刻む墓誌碑が建ち、裏面は墓誌となっている。

*妻は文枝。文枝は同郷の岡村又次郎の長女。3女を儲ける。長女は歌子、二女は美恵子、三女は春子。

*花村四郎邸は東京・中野区にあり、遺族が中野区に土地を寄贈。現在跡地には中野区立本町図書館が建っている。図書館2階には花村四郎胸像が配置されている。


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