信濃国(長野県)須坂市小山(臥竜山の麓)出身。父の耕作は須坂藩の足軽小頭(元々は床屋格の農家)。
原が生まれた日が旧暦の元旦であったため、幼名を亀太郎と命名された。数え年7歳で寺の住職に漢籍を習い、8歳から村の小学校へ通う。
一度習ったことは絶対に忘れないという記憶力抜群であり、10歳で首席で卒業。卒業後は近くの私塾で漢籍を習いながら、年上も多く通う母校の教壇にも立ったという。
16歳で上京し、私塾で英語を勉強し、翌年、東京大学予備門の試験に合格した(後の旧制第一高等学校)。
1890(M23)東京帝国大学法科大学英法学部を首席で卒業。同級生で二番の成績であった柴田家門は後に第三次桂内閣の文部大臣、三番の石井菊次郎は第二次大隈内閣の外務大臣となるため、同級生トップ三名が後に大臣に名を連ねることとなる。
代言人(弁護士)志望であったが資金がないため、農商務省に入省。
早くから当時の農商務大臣の陸奥宗光、その秘書官の原敬に知遇を受け、前途を嘱望され、入省二年目にして東京、大阪の両鉱山監督署長に抜擢された。
しかし、陸奥が大臣を辞任するとこれに殉じ、役人生活から念願の弁護士に転進した。退官を惜しんだ陸奥は慰留の手紙を出すが、初志を貫徹した。
1893東京・京橋に法律事務所を開業。農商務省で鉱山関係に従事していた縁で、鉱山関係の依頼が舞い込むようになり、豊国炭坑事件(福岡)、端島炭坑事件(長崎)を担当し名を上げ、さらに足尾鉱山の煙害事件、東京株式取引所の炭鉄株受け渡し違約事件にも当たるほか、青木徹三博士が不敬罪廃止論を書いて起訴された事件では執行猶予に持ち込み、手術のガーゼを腹中に置き忘れた医師を無罪にするなど、注目された事件を次々と手がけたことで、“民事訴訟の第一人者”として名を馳せた。
東郷平八郎(7-特-1-1)の信任も厚く、海江田子爵家の家督相続事件では、東郷から依頼され担当し、勝訴を勝ち取った。
当時の民事訴訟法は、1891(M24)に新しく切り替わった時期であり、知識が乏しい古い裁判官や弁護士は歯が立たなかったという。
日本弁護士協会設立に参画、国際弁護士協会設立に努め、法曹界の重鎮の一人となる。1911東京弁護士会長に就任し三期つとめたあと、第一東京弁護士会長も二期つとめた。
また、東大、早稲田、中央の各大学で講師、学習院大学では教授として教壇に立つ。後の'30(S5)中央大学学長も務め、“法律の中央”の基礎を築いた。
その間、三井銀行・三菱銀行・興業銀行・横浜正金銀行などの法律顧問を兼ねて財界の信任を得、三井信託取締役・三井報徳会会長をつとめる。
'23(T12)平沼騏一郎(10-1-1-15)と国本社を創設し理事に就任した。
'27(S2)田中義一(6-1-16-14)内閣の司法大臣に迎えられた。
当時の司法大臣は政界の実力者か検事総長経験者というのが通例であり、弁護士生活三十五年という在野からの就任は異例の出来事であった。
しかも、この内閣は、内務大臣・鈴木喜三郎、大蔵大臣・高橋是清(8-1-2-16)、商工大臣・中橋徳五郎、鉄道大臣・小川平吉、内閣書記官房長・鳩山一郎と実力者揃いであり、そのほとんどが正3位か従3位以上という高位高官である。
これに対し、原は農商務省在籍時にもらった正7位のままであった。
当時の正7位は田舎の小学校校長や軍人の中尉か大尉ぐらいになると与えられた位であり、正7位の大臣は珍しいと世間で話題になった。
これを受け止めた賞勲局は一ヶ月もたたずして正4位を贈り、他の大臣とのつりあいをもたせた。
当時は金融恐慌や日中戦争へと足を踏み入れる騒乱の時期であり、社会不安から労働運動が活発化、革新陣営の政治活動も先鋭化していた。
そこで、政府は昭和3年3月15日、治安維持法にもとづく日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)を行った。
三・一五事件は司法大臣の原のもとで行われたが、この第一線の指揮に当たったのが検察関係では東京地検検事正の塩野季彦、警察関係では内務省警保局長の山岡万之助である。
塩野も山岡も原と同じ長野県出身者。この三・一五事件の大がかりな検挙で、徳田球一(19-1-31-2)、志賀義雄(25-1-76-1)、河田賢治、水野成夫、春日正一ら幹部クラスを含め、逮捕者は全国で1600人に及んだ。
治安維持法による共産党の検挙は翌'29.4.16にも行われ300人の逮捕者が出た。また同年、治安維持法を改正し国体変革に対しては最高刑を死刑とする修正条項を追加した。
この治安維持法強化による共産党大検挙に重要な役割を果たした功績で、'31枢密顧問官となった。
'38平沼騏一郎議長のもとで枢密院副議長に就任。翌年、議長が近衛文麿に代わっても留任、'41.6.24近衛に代わり、枢密院議長となった。
議長は没するまで任ぜられた。王公族審議会総裁・賞勲局議定官を兼任。'40泥沼の戦争状態の時、日独伊三国同盟への参加問題が枢密院に諮問されると、この同盟に反対し、外務大臣の松岡洋右を批判した。
しかし、流れには杭することが出来ず、同盟は締結される。同盟を結んでいるドイツがソ連に宣戦布告し第二次世界大戦が勃発したことを受け、日本の姿勢を御前会議で討議の際、最期まで戦争回避を主張し、内大臣の木戸幸一(18-1-3)を通じ、岡田啓介(9-1-9-3)や米内光政など、戦争を何とか食い止めようとする重臣たちの意見を天皇に伝えようと努力するも、日本の示した提案を全面的に否定するハル(米国国務長官)ノートが示され、御前会議で米国との開戦が決まり、真珠湾攻撃、原の努力は成功せず太平洋戦争が始まった。
戦時下の枢密院は戦争完遂という目的のため、全くその機能を発揮できず、議長という立場も存在が薄かった。
太平洋戦争の敗報がしきりに届く年に没す。享年77歳。死去に対して勅使がつかわされ、御沙汰書を賜った。
また、'44.8.7没したその日に、特旨をもって華族に列せられ、男爵の爵位と勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。
これは明治十七年華族令が発布されて60年目、最後の爵位授爵(最後の華族)となる。
なお、原は死去しているため、爵位は子の原寛(ひろし)が受け継いだ。主な著書に『弁護士生活の回顧』。法学博士。勲一等旭日大綬章('38.9.14)。
<コンサイス日本人名事典> <「信州の大臣たち」中村勝実> <日本の名門1000家>
*墓石は和型「原嘉道 室 光 墓」、右面「昭和十九年八月七日薨 謙徳院殿明法嘉道大居士 享年七十有八」と刻む。左面は妻の光「昭和十八年三月六日歿 戒珠院殿端操韶光大姉 享年六十有八」と刻む。墓所右側に墓誌があり、45歳で亡くなった長男の原清輝から刻む。寛の戒名は種徳院浄覺寛道居士。妻は道子(S52.3.16歿)はエリザベートと刻む。
*原嘉道の妻の光は岡村義昌の五女。兄の岡村輝彦は横浜地方裁判所所長などを務めた人物。二男二女を儲け、長男は原清輝、二男は原寛、長女の富美子は銀行家の林田敏義に嫁ぎ、二女の明子は大蔵官僚の大野龍太に嫁いだ。原寛の妻の道子は物理化学者の片山正夫の三女。
第330回 最後の男爵 治安維持法で一斉検挙を指導 原嘉道 お墓ツアー
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