長野県須坂市出身。父は弁護士や宮内政治家を務めた原嘉道、光(共に同墓)の二男として生まれる。
1934(S9)東京帝国大学理学部植物学科卒業。卒業後は副手として母校に残り、後に講師に昇任し、'38から二年間、米国ハーバード大学に留学。'40 帰国。'44 母校の助教授となる。
1944.8.7(S19)父の死去に伴い、特旨をもって華族に列せられ、男爵を授爵した。兄の原清輝(1895-1940.4.21:同墓)が45歳で亡くなっていたため、二男の寛が男爵を襲爵した。'47 華族制度が廃止されたため、襲爵してわずか3年の華族であった。また、以後、授爵者がいなかったため、明治十七年華族令が発布されてから最後の爵位授爵(最後の華族)となった。
戦後は、戦争を挟み停滞していた日本の植物分類学を発展させるため、東京大学の標本室の改善、日本国外の植物相研究の充実などに尽力。'57 東京大学教授。'60 東京大学の第一次ヒマラヤ調査隊隊長をつとめ、以降、第二次から第五次まで継続され、ヒマラヤの植物研究を行い、その成果は『東部ヒマラヤ植物誌』(全3巻)にまとめられた。
日本植物学会会長。植物分類学の世界的権威であり、生涯にわたって記載した植物の新種は約700種にあがる。植物の学名で命名者を示す命名者名略表記は「H.Hara」。著書に『日本種子植物集覧』(全3巻:1949-1954)、『日本種子植物分布図集』(全2集:1958)などがあり、共編に『最新植物用語辞典』(1965)がある。
'71 停年退官、名誉教授。退官後、日英交換科学者第1号として渡英。大英博物館からヒマラヤ産植物の整理の協力を求められ、『ネパール産種子植物集覧』(全3巻)の主著者となった。
昭和天皇の生物学研究の相談相手を務める学者グループの一員として、『那須の植物』『伊豆須崎の植物』などの著作の編纂を手伝った。理学博士。享年75歳。没後、膨大な論文や記事の総目録、寛によって命名された植物学名や和名の完全リスト等がまとめられ、原寛博士記念事業会より『原寛博士業績総覧』(1991)が出された。