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はら ひろし

原 寛

はら ひろし

1911.1.5(明治44)〜 1986.9.24(昭和61)

昭和期の男爵、植物分類学者

埋葬場所: 10区 1種 1側

 長野県須坂市出身。父は弁護士や宮内政治家を務めた原嘉道、光(共に同墓)の二男として生まれる。
 1934(S9)東京帝国大学理学部植物学科卒業。卒業後は副手として母校に残り、後に講師に昇任し、'38から二年間、米国ハーバード大学に留学。'40 帰国。'44 母校の助教授となる。
 1944.8.7(S19)父の死去に伴い、特旨をもって華族に列せられ、男爵を授爵した。兄の原清輝(1895-1940.4.21:同墓)が45歳で亡くなっていたため、二男の寛が男爵を襲爵した。'47 華族制度が廃止されたため、襲爵してわずか3年の華族であった。また、以後、授爵者がいなかったため、明治十七年華族令が発布されてから最後の爵位授爵(最後の華族)となった。
 戦後は、戦争を挟み停滞していた日本の植物分類学を発展させるため、東京大学の標本室の改善、日本国外の植物相研究の充実などに尽力。'57 東京大学教授。'60 東京大学の第一次ヒマラヤ調査隊隊長をつとめ、以降、第二次から第五次まで継続され、ヒマラヤの植物研究を行い、その成果は『東部ヒマラヤ植物誌』(全3巻)にまとめられた。
 日本植物学会会長。植物分類学の世界的権威であり、生涯にわたって記載した植物の新種は約700種にあがる。植物の学名で命名者を示す命名者名略表記は「H.Hara」。著書に『日本種子植物集覧』(全3巻:1949-1954)、『日本種子植物分布図集』(全2集:1958)などがあり、共編に『最新植物用語辞典』(1965)がある。
 '71 停年退官、名誉教授。退官後、日英交換科学者第1号として渡英。大英博物館からヒマラヤ産植物の整理の協力を求められ、『ネパール産種子植物集覧』(全3巻)の主著者となった。
 昭和天皇の生物学研究の相談相手を務める学者グループの一員として、『那須の植物』『伊豆須崎の植物』などの著作の編纂を手伝った。理学博士。享年75歳。没後、膨大な論文や記事の総目録、寛によって命名された植物学名や和名の完全リスト等がまとめられ、原寛博士記念事業会より『原寛博士業績総覧』(1991)が出された。

<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>
<日本の名門1000家>
<人事興信録など>


墓所 はら よしみち

*墓石は和型「原嘉道 室 光 墓」、右面「昭和十九年八月七日薨 謙徳院殿明法嘉道大居士 享年七十有八」と刻む。左面は妻の光「昭和十八年三月六日歿 戒珠院殿端操韶光大姉 享年六十有八」と刻む。墓所右側に墓誌があり、45歳で亡くなった長男の原清輝から刻む。寛の戒名は種徳院浄覺寛道居士。妻の道子(S52.3.16歿)はエリザベートと刻む。

*原嘉道の妻の光は岡村義昌の五女。兄の岡村輝彦は横浜地方裁判所所長などを務めた人物。二男二女を儲け、長男は原清輝、二男は原寛、長女の富美子は銀行家の林田敏義に嫁ぎ、二女の明子は大蔵官僚の大野龍太に嫁いだ。原寛の妻の道子は物理化学者の片山正夫の三女。


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