北海道亀田郡戸井村汐首(函館市戸井町)出身。旧姓は巽(たつみ)。大谷女学校を卒業し、1921(T10)上京し、看護婦見習いなど多くの職種を転々とし、社会主義運動に身を投じていくことになっていく。'27(S2)全国婦人同盟結成に参加し、'29 無産婦人同盟の結成にも参加した。'31 中野組合病院設立に尽力し、以後、会計を担当した。
戦後、日本社会党の結党に参加し、婦人運動を行う。婦人問題研究会常任理事、東京家庭裁判所調停委員を務めた。'54.9.26(S29)青函連絡船の洞爺丸が台風の影響で沈没する事故が起こり、夫の菊川忠雄(同墓)を亡くす。遺された君子は洞爺丸事故遺族会の会長を務めた。
洞爺丸事故で死去した夫の忠雄の跡を継ぎ、'55.2.27 第27回衆議院議員総選挙において、忠雄の選挙区である東京4区から右派日本社会党公認で出馬するも、花村四郎(25-1-45)、帆足計、岡崎英城(20-1-21)に次ぐ僅差の次点にて落選(定数3名)。再び、'58.5.22 第28回衆議院議員総選挙に同じ東京都第4区から出馬してトップ当選を果たした。岡崎英城、帆足計が続き、前回のトップ当選した自由民主党の花村四郎は落選した。
民主社会党の結党に加わり、'60.11.20 第29回衆議院議員総選挙に出馬したが、岡崎英城、帆足計、花村四郎が返り咲き、落選。'63.11.21 第30回衆議院議員選挙に民主社会党公認で出馬したが、花村四郎死去に伴い参議院から鞍替えしてきた重盛寿治に敗れ落選。
この間、日本社会党政策審議会運輸副部長、民主社会党院内幹事、同生活協同組合連絡会議副議長などを務めた。享年85歳。