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よさの てっかん

与謝野鉄幹

よさの てっかん

1873(明治6)〜 1935(昭和10)

明治・大正期の歌人、詩人

埋葬場所: 11区 1種 10側 14番

 鉄幹は号。墓には本名の寛。1892(M25)上京。落合直文に師事。93浅香社結成に参加。「二六新報」に入社。 94同紙に歌論「亡国の音」を連載、旧派の短歌を痛烈に批判し注目された。 96詩歌集「東西南北」、97「天地玄黄」を出版。99新詩社結成。翌年雑誌「明星」創刊。1901鳳晶(与謝野晶子)と結婚。 短歌革新とともに詩歌による浪漫主義運動展開の中心となり、多くの俊才がここに集まった。 以後「明星」主宰者として後進の指導に当たるとともに詩歌集・歌論集を出版。歌は雄壮で男性的であった。 11渡欧しパリに滞在、13(T2)帰国。19〜32(T8〜S7)慶大教授として国文学・国文学史を講じた。 また21西村伊作らと文化学院を創設。「日本古典全集」や「?外全集」等の編集にも尽力した。

<コンサイス日本人名事典>


*長男の与謝野光は教育家として、次男の与謝野秀は外交官として活躍した。 なお、次男の秀の出生を提出する際、兄弟の与謝野修が結婚前にの子である譲を産んだことで、鉄幹と晶子は一時引取り双子の弟として出生手続きをしたこともある。 その与謝野譲(3-2-41)は後にベルリン反帝グループの一員やジャーナリストとして活動した人物である。

*与謝野家墓所の設計者は西村伊作。


与謝野鉄幹・晶子の墓
 鉄幹の七周忌のあと、晶子は昭和十七年五月二十九日に六十五歳の生涯を閉じた。 のちに、知人・門人の手によって建立された夫妻の墓は、三角屋根の明るい二墓同型のもので、向って右側が晶子の墓、左側が鉄幹の墓。 正面にそれぞれの名を刻み、裏面に没年月日と享年、鉄幹の方は門人有志建之、晶子の方は知友門人建之と刻む。台座の上(本来カロート部分)に晶子の歌が刻まれている。


鉄幹
今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西のむさし野

晶子
なには津に咲く木の花の道なれどむぐらしげりて君が行くまで

どちらも晶子の筆跡で刻む。また墓域前入口の左右にも歌碑が刻む。
鉄幹側「知りがたき事もおほかた知りつくし今なにを見る大空を見る」寛
晶子側「皐月よし野山のわか葉光満ち末も終りもなき世の如く」晶子


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