メイン » » » 木下杢太郎(太田正雄)
きのした もくたろう

木下杢太郎(太田正雄)

きのした もくたろう
(おおた まさお)

1885.8.1(明治18)〜 1945.10.15(昭和20)

明治・大正・昭和期の詩人、文学者、医学者

埋葬場所: 16区 1種 12側 3番 (太田正雄之墓)

 静岡県伊東市湯川出身。本名は太田正雄、筆名が木下杢太郎。別号・きしのあかしや。地下一尺生、堀花村、北村清六、葱南(そうなん)などの筆名も用いた。 呉服や雑貨を扱う素封家の商家「米惣」の惣五郎・いとの7人兄姉(姉4人・兄2人)の末子として生まれる。 3歳の時に両親を失い、義兄と長姉に育てられた。家には祖母や母親が好んで読んだ江戸時代の絵草紙や錦絵があり、書籍も販売していたため、少年期から江戸文化と明治の近代文化を吸収していた。
 1898(M31)13歳の時に上京し獨協中学に入学。在学中から文集「地下一尺」を執筆。1903第一高等学校に入学。三宅克己に水彩画を学ぶ。 '06東京帝国大学医学部に入学。'07与謝野鉄幹(11-1-10-14)の新詩社の九州旅行に北原白秋(10-1-2-6)、吉井勇らと参加。 詩作「南蛮詩」を明星に発表し耽美詩人として活躍した。同じ頃「明星」への参加を通して石川啄木らと親交、また画論や画評も発表し黒田清輝らとも交友を深めた。 '08白秋、吉井らと新詩社を脱退し「パンの会」を結成。森鴎外の観潮楼歌会に出席し、鴎外の指導を得、鴎外に傾倒していった。 '09白秋らと「スバル」、「屋上庭園」を創刊。この頃より“木下杢太郎”の筆名を使いはじめる。 異国情緒と江戸趣味を融合した詩風は、日本近代詩に新風を吹き込んだと言われる。'11スバルや三田文学等への寄稿のみならず、美術評論も多数発表。同年医学部を卒業した。
 '12進路に悩み、森鴎外に相談をした結果、医学の道を勧められ、皮膚科の権威の土肥慶蔵(7-1-1-5)を紹介され、東大皮膚科学教室に入る。 同年、第一の戯曲集『和泉屋染物店』刊行。'13(T2)「癜風菌の研究」により東大より医学博士の学位を授与。'14戯曲集『南蛮寺門前』刊行。 '15第一の小説集『唐草表紙』刊行。 '16満鉄経営の南満医学堂教授に就任。翻訳・美術論集『印象派以後』刊行。 '19斎藤茂吉らの尽力で『食後の唄』、翻訳『十九世紀仏国絵画史』刊行。'21欧米留学。パリを本拠地としてドイツ、イタリア、エジプトも訪問。 パリでは当時有名な医真菌学者であったサン・ルイ病院のレイモン・サブロー博士と交友を深める。この間、評論集『地下一尺集』、翻訳『支那伝説集』刊行。 '22木村荘八との共著『大同石仏寺』刊行。'24欧州から帰国し、愛知医科大学教授に就任。'26東北帝国大学教授に就任。『厥後集』刊行。 与謝野晶子(11-1-10-14)は杢太郎の人物を愛し、文学界のみならず医学界での成功を喜び「明星」に詩を載せた。'29(S4)『えすぱにやぽるつがる記』刊行。 '30『木下杢太郎詩集』刊行。'33翻訳『日本遣欧使者記』刊行。'34随筆集『雪欄集』刊行。'37東京帝国大学医学部教授に就任。 '39中国へ出張。『其国其俗記』刊行。'42大同石仏寺再訪。『木下杢太郎選集』刊行。'43『日本吉利支丹史鈔』刊行。
 '43(S18)3月から死の直前の'45(S20)7月27日まで、大学構内、庭、路傍の野草の植物写生を始める。水彩の画稿は872枚にものぼり、後に『百花譜』として刊行。 なお、紙不足の戦時中のこととて横ケイの医学用箋に描かれている。最後に描かれた「やまゆり」は死の病床でスケッチしたもので、その添え書きに「胃腸の痙攣疼痛なほ去らず、家居臥療。 安田、比留間この花を持ちて来り、後これを写す。運勢たどたどし」とある。胃幽門癌により逝去。享年60歳。

<コンサイス日本人名事典>
<世界人名辞典>
<伊東市立木下杢太郎記念館パンフレットなど>


墓所
びわの実

*正面「太田正雄之墓」、左に並んで「太田家之墓」が建つ。右側に「東京大学教授 太田正雄博士之碑」が建つ。碑は13回忌の昭和32年に太田正雄教授記念会により建之された。 「太田正雄之墓」の裏面には、筆名木下杢太郎の刻みもある。生没年月日、伊東に生まれ、東京に死すとも刻む。戒名は斐文院指學葱南居士。 「太田家之墓」の裏面には、正雄の妻の太田正子と二人の次男の太田元吉の刻みがある。正子は旧姓は河合、1896.1.13(明治29)-1980.7.21(昭和55)、東京に生まれ、東京に死す。正夫とは大正6年8月26日に嫁すと刻む。戒名は寿徳正明大姉。

*墓石手前にある寝石には、生前描いた『びわの実』のデッサンが陰刻されている。


【木下杢太郎の筆名の由来】
 家人に知られないように「黄金色に稔るみかんの実をみて、その木の下に何かの秘密があるのではないかと真剣に思案する、凡愚な農民杢兵衛の子杢太郎」としたのが由来とされている。


【医学者太田正雄】
 1898(M31)家人は正雄を医者にすることを考え、中学からドイツ語を教える独協中学に入れた。 しかし正雄は医者になることを嫌い、絵描きになりたい、或いは文学者になりたいと反抗し、進路に悩むが、'12森鴎外の勧めもあり医学に就くことになった。 東大医学部卒業後は、皮膚科の権威の土肥慶蔵の東大皮膚科学教室に入る。 '13(T2)医学博士。'16南満医学堂教授兼奉天医院皮膚科部長、'23リヨン大植物学研究室で真菌分類の研究を始める。 同僚と真菌分類法を完成。'24愛知県立医学専門学校(名古屋大学医学部)教授。'26東北帝国大学医学部教授。'37(S12)東京帝国大学教授。 伝染病研究所研究員を兼ねる。研究は医真菌学、皮膚絲状菌、レプラ、皮膚腫瘍などに関するもので、6カ国語の語学力を生かし研究発表を行い、その業績は国際的にも高く評価された。特に癩病の世界的権威とされる。
 '38眼上顎部青色母斑を独立疾患として発表。これは太田母斑という名でも呼ばれる。目の周りから頬にかけで現れるあざであり、色は青以外に褐色や茶色のものもある。 '41(S16)日仏交換教授としてフランス領インドシナに出張。医学会とハノイ大学などで講演。同年、フランス政府より医真菌学の研究論文に対し、権威あるレジョン・ド・ヌール章を授与された。
 水虫が白癬菌でおこる皮膚病であることを日本で最初に証明したのも正雄である。白癬菌を含む医真菌学関係の研究だけでも、フランス語論文16篇、ドイツ語5篇、英語2篇の23篇を数える。 また、ハンセン氏病治療のパイオニアでもある。当時の日本では隔離対策が主流であった中で、正雄は化学療法の確立を目指し研究を行っていた。 この研究は未完にて終わったため、その業績を知る人が少ないが、2004(H16)『ユマニテの人 木下杢太郎とハンセン病』(成田稔著、日本医事新報社)という本が刊行され、正雄の皮膚科・細菌学者としてのハンセン病に関する研究を詳細にとりあげられ再評価された。 正雄は吉利支丹史研究(キリシタン研究)もしていたが、研究をする中で、戦国・徳川時代、キリスト教の宣教師等が主に患者の精神的救済にあたったことを知り、医学者としての正雄は医学的救済を志したとされる。


【家族】
 父は2代目太田惣五郎、母はいと。子供は先に女4人、その後男3人の7人姉兄。正雄はその末子。正雄が3歳の時に両親を失ったため、長姉のよし、よしの夫の惣兵衛に親代わりとして育てられた。
 次姉のきんは、関西建築界では長老的な存在であった建築家の河合浩蔵の後妻として嫁いだ。なお、正雄は河合浩蔵の先妻との間の娘の正子と、'17.8.26(T6)結婚した。
 三姉のたけ(竹子)は、樋口一葉の友人であり、二人で撮った写真が現存する一葉の写真として貴重なものとされている(木下杢太郎記念館所蔵)。なお、たけは法学者の斎藤十一郎に嫁ぐ。四姉はくに。
 長兄の太田賢治郎は第二代伊東市長になった県会議員。'29(S4)賢治郎が白秋に依頼し伊東市の民謡「ちゃっきり節」(伊東音頭の作詞)が誕生した。
 次兄の太田円三は土木事業家であり、関東大震災で壊滅した東京を復興させるために設置された帝都復興院の土木局長を務めた。 区画整理や隅田川六橋の設計などに尽力し、道路の拡張・新設、高速鉄道・地下鉄の必要性を説き、近代都市東京の基礎を築いた。 しかし、区画整理に対する無理解や復興局疑獄事件の発覚などによる心労のため'26(T15)自ら命を絶った。

<小西克介様より情報提供>


【伊東市立 木下杢太郎記念館】
住所:静岡県伊東市湯川2-11-5 (JR伊東駅から徒歩5分)
開館時間:9:00-16:30(4月‐9月)、9:00-16:00(10月‐3月)
休館日:月曜日(祝日の場合は火曜日、年末年始除く)
入館料:大人100円
 記念館は、杢太郎の生家で、市内に現存する最古の民家でもあり、当時の伊豆の生活を伝える貴重な民具類も並んでいる。また、文学者、医学者として知られる木下杢太郎の貴重な資料が展示されている。
 1985.10.5(S60)杢太郎の甥にあたる太田慶太郎氏が以前より公開していた杢太郎の資料を伊東市に寄贈、杢太郎生誕100年を記念して「伊東市立木下杢太郎記念館」が開館した。



第387回 医者と詩人の二刀流 医真菌学者
癩病 水虫 太田母斑 木下杢太郎 (太田正雄) お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。