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どひ けいぞう

土肥慶蔵

どひ けいぞう

1866.7.20(慶応2.6.9)〜 1931.11.6(昭和6)

明治・大正期の近代医学の権威(皮膚科学、性病学者)

埋葬場所: 7区 1種 1側 5番

 越前府中松原(福井県武生市)出身。本姓は石渡。号は鶚軒(がくけん)。越前藩藩医五世の石渡宗伯の次男として生まれる。 15歳の時に兄の秀實に伴われて上京し、下谷の進学舎でドイツ語を学び、東京外国語学校に入学。1885東京帝国大学医学部予科に入学。 1889(M22)24歳の時に母方の叔父の土肥淳朴(同墓)の養子となり、土肥姓となる。
 1891(M24)大学を卒業後、附属第一医院外科医局に入局し、外科医のスクリバの助手。1893欧州に留学。 最初はドイツのハイデルベルグ大学で外科学を学んでいたが、東京帝国大学医科大学の皮膚病梅毒学の初代教授であった村田謙太郎が亡くなったため、文部省より後任者として召され文部省留学生として皮膚科学を学ぶことを命ぜられた。 そのため、オーストリアのウイーン大学に移り、モーリッツ・カボジに皮膚科学、ランゲに梅毒学を学んだ。 皮膚科と泌尿器科は近いところにあることを知り、1897フランスのパリ大学で泌尿器科学をギュイヨンに学んだ。 これが日本への泌尿器科学の導入の先駆けとなった。同年、ベルリンで開催された第1回国際らい会議に高木友枝(21-1-5)と出席。 後に日本らい学会創設につながっていく。
 1898帰国後は、助教授として東京帝国大学医科大学に新設された皮膚病学・梅毒学講座を担当、医学博士となり、教授となる(〜1926)。 1900日本皮膚科学学会を創設し、諸種の皮膚病を発見し、独特の皮膚治療法を考案、特に理学的療法に先鞭をつけるなど、わが国の皮膚科泌尿器科学の開拓・育成に努めた。 また、欧米諸国を歴訪して数多くの国際会議に参加し活躍した。立ち遅れた日本の医学を世界的レベルにまで押し上げ、当時の皮膚科学の世界的権威と称された。 1905日本性病予防協会を創設。泌尿器科学の皮膚科学からの独立をはかり、性病予防の啓蒙に努めた。
 留学中の恩師であるガボジの紹介で会ったヘニングから蝋細工で皮膚病を表現する方法「ムラージュ」の製法を教わり、日本に初めて技術を伝えた人物でもある。 ムラージュとは蝋製標本で、皮膚疾患の記録として人体の型とおりに作り、彩色をしたものである。 伊藤有(1864-1934)に技法を教授し、伊藤がアレンジを加え、日本独自のムラージュを作り出した。 この技術は戦後のカラー写真が普及するまでの長きにわたり、医学教育に大いに貢献した。
 東大医科大学時代の同級生の呉秀三(5-1-1-9)や富士川游らの影響を受け、「医史学」にも興味を持ち、'21(T10)『世界黴毒史』を刊行。 この本は皆見省吾により独訳され、世界的に読まれた名著とされる。漢詩文にも造詣が深く、土肥鶚軒として、『鶚軒游戯』('27)、『鶚軒先生遺稿』(全2巻、'32)など多くの作品を残している。 '26ドイツ学士院会員に推される。同年退官し、東京帝国大学名誉教授。'27(S2)学士院賞。 上京して勉学する学生のため学舎「武生郷友会」を創立したり、若越医学会を創設するなど郷土の人々の教育にも力を尽くした。享年65歳。
 妻は三井財閥の令嬢。東京帝国大学での教え子の栗田章司を養子に迎えた。土肥章司(12-1-15)は皮膚科学者として活躍した。 進路に悩んだ末、森鴎外に勧められ、医学の世界を志した太田正雄(=木下杢太郎、16-1-12-3)の師としても有名。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓地

*墓所は正面に和型「南無阿弥陀佛」と刻む墓。その右側に「土肥家累代之墓」が建つ。その手前右側に土肥慶蔵の略歴が刻む碑が建つ。


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