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きたはら はくしゅう

北原白秋

きたはら はくしゅう

1885.1.25(明治18)〜  1942.11.2(昭和17)

明治・大正・昭和期の詩人、歌人

埋葬場所: 10区 1種 2側 6番

 熊本県南関出身(福岡県柳川が本籍地であり、産まれて間もなく戻っている)。本名は隆吉。父・長太郎、母・シカの長男として生まれる。弟の北原鉄雄(3男:15-1-13)は白秋の著作の大半を出版したアルス社を創業。 弟の北原義雄(4男:15-1-13)は美術系を専門とした出版会社のアトリヱ社を創業。従弟の北原正雄は主に映像や写真に関する雑誌や書籍の出版を専門とした玄光社を創業。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。
 県立伝習館中学(福岡県立伝習館高等学校)の時に成績不振で落第をする。この頃より詩歌に熱中し、明星派に傾倒。1901(M34)大火により北原家の酒倉が全焼。この年より、同人雑誌に詩文を投稿し始め、「白秋」の号を用いる。 '04長詩『林下の黙想』が河井醉茗の称揚するところとなり『文庫』四月号に掲載される。これに感激し、中学を退学して、早稲田大学英文科予科に入学のため、上京。 同郷の若山牧水や中林蘇水と親しく、この頃の号を射水と称し、「早稲田の三水」と呼ばれた。'05『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、新進詩人として注目されるようになる。
 '06新詩社に参加し、与謝野鉄幹(11-1-10-14)、与謝野晶子(11-1-10-14)、木下杢太郎(16-1-12-3)、石川啄木らと知り合い文壇の交友が広がる。「明星」に詩・短歌を発表、才能を示した。 '08『謀叛』を発表し、世評高くなる。この年に新詩社を脱退し、石井柏亭や吉井勇らと「パンの会」を作り、翌年「スバル」を創刊。〈耽美派〉〈新浪漫派〉と呼ばれる文学グループに属して活躍。木下らと詩誌「屋上庭園」を創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。年末に実家が破産し、一時帰郷した。
 '10「屋上庭園」第二号に掲載した詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、発禁処分を受け、同誌は年内で廃刊となった。'11第二詩集『思ひ出』刊行。これは、故郷柳川と破産した実家に捧げられた詩集であり懐旧の情が高く評価された。 文芸誌『朱欒』を創行。'12父母と弟妹を東京に呼び寄せる。この時期、隣家の松下俊子と恋仲となるが、俊子は夫と別居中の人妻であったため、二人はその夫から姦通罪により告訴され未決監に拘置された。 弟らの尽力により二週間後に釈放され、後に和解も成立し告訴は取り下げられたが、人気詩人のスキャンダルとなってしまった。'13(T2)俊子と結婚し三崎に転居。同年、処女歌集『桐の花』を出版。詩集『東京景物詩及其他』を刊行。
 '14肺結核を患った俊子のために小笠原父島に移住するが、ほどなく帰京。父母と俊子の折り合いが悪く離婚する。この年は『真珠抄』『白金之独楽』を刊行、『地上巡礼』を創刊した。 '15弟の鉄雄と阿蘭陀書房(のちのアルス)を創立し、雑誌『ARS』を創刊。詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。'16江口章子と結婚し、葛飾紫烟草舎に転居。『白秋小品』刊行。'18小田原に転居。 雑誌「赤い鳥」で童謡を担当し、後に『トンボの眼玉』『兎の電報』『祭りの笛』などの童謡集を出版し作品に新生面を拓く。'19処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。歌謡集『白秋小唄集』刊行。'20『雀の生活』刊行。この年、章子と離婚。
 '21国柱会会員、田中智學のもとで仕事をしていた佐藤菊子(同墓)と結婚。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。'22長男の隆太郎(後の禅哲学者・同墓)が誕生。文化学院で講師。 創作民謡にも新生面を開き『日本の笛』などを刊行。また、山田耕筰と雑誌「詩と音楽」を創刊、2人のコンビから生まれた歌は今日でも多く愛唱されている。'23詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
 '24家族との静岡旅行で長歌1首、短歌173首を作る。短歌雑誌『日光』を創刊。'25長女の篁子誕生(後にドイツ語学者の岩崎英二郎に嫁ぐ)。童謡集『子供の村』など刊行。'26東京谷中に転居。 詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。'27(S2)出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛(14-1-6-1)と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。'28世田谷に転居。'29『海豹と雲』刊行。'32吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。
 '33皇太子誕生に際し、作曲・中山晋平(21-1-6-3)にて奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』を発表。'34『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。'35新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。'37糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、視力がほとんど失われたが、歌作に没頭。'38ヒトラー・ユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義へ傾倒。'40日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲:信時潔)の作詩にあたる。'41芸術院会員。この年の年末より病状が悪化し、小康を得て病床に執筆や編集を続ける。生涯の全著作は200冊にのぼる。享年57歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本人名事典>
<北原白秋記念館公式略歴など>


墓所

*墓所は円塔のような墓石に「北原白秋墓」とあり、左隣りに「北原家墓」が並んで建つ。墓の設計者は版画家の恩地孝四郎。

*北原白秋生誕百年にあたる1985「北原白秋記念館」が福岡県柳川市が開設した柳川市立歴史民俗資料館の施設内にて開館。運営は財団法人北原白秋生家保存会。北原白秋生家(隣接)。

*谷中の北原家旧居跡は現在台東区指定史跡になっている。

*鈴木三重吉主宰の雑誌「赤い鳥」の一般募集の詩に対して選者を務めていた時に、福岡県在住の小学校教師だった興田準一(13-1-27)の才能を見出し、'28上京させた。上京させる一年前'27.4.9スタンプの北原白秋が興田準一に送ったハガキにはこのように記されている。「今度の家も手狭で、君の勉強部屋や寝室に当てるべきものがないため、窮屈だろうと思うが、とにかく上京してみたまへ。・・・入学のつもりで、かたがた私の助手なり書生なりの覚悟でないと失望するだろう。」興田準一上京後は、自宅に住まわせ詩人への道のサポートを行った。準一は白秋の子息の家庭教師なども行ったという。興田準一はその後、児童文学界の重鎮として尽力し、白秋のイズムをこれからの世代へと注ぐ人物となった。

*北原白秋は1912.7.(M45)隣家の人妻の松下俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘留、無罪免訴。1913.4.(T2)離婚した俊子と結婚。 神奈川県の三浦三崎で新生活を始め、『城ケ島の雨』などの作品を出すが1年余りで離婚。1916.5.(T5)江口章子(アヤコ)と再婚。章子は詩人でありバツイチ同士。東京都南葛飾に移転。 その後も各地を転々と移り住む。この頃の生活は窮乏のどん底で、白秋の詩境も沈潜。'19(T8)小田原に「木兎の家」と呼ぶ茅葺きの家を建てた頃から窮乏生活から脱したが、1920.5.(T9)章子と離婚。 1921.4.(T10)佐藤菊子と再々婚。この頃は生活も安定し、子供にも恵まれ、詩作活動も蘇った。白秋と3人の妻たちをめぐる人間模様を、作家の瀬戸内晴美氏が長編小説『ここ過ぎて』に描いており詳しく知ることができる。

<北原白秋記念館 白秋ノートより抜粋>


北原菊子(きたはら きくこ)
1890(明治23)〜1983.1.2(昭和58)
北原白秋の後妻
 旧姓佐藤。大分市出身。大分県立第一高等女学校卒業。1921(T10)白秋と結婚。新婚時は神奈川県小田原で過す。 翌年長男の隆太郎が誕生。'25長女の篁子も生まれ、家庭的安息を得て、白秋は遠ざかっていた歌作にも意欲を吹き返した。 '26(T15)二人は東京に出て谷中天王寺町の彫刻家朝倉文夫の隣に居を構えた。 白秋にとって菊子は三人目の妻であったが、菊子によって白秋は家庭生活の本当の安らぎを得た。 1942(S17)11月2日阿佐ヶ谷で白秋が没し、菊子親子は西荻窪に移転した。享年93歳。

<日本女性人名辞典>
<五輪塔様より情報提供>



第8回 北原白秋のお墓ツアー


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