福岡県山門郡瀬高町(みやま市)出身。浅山与太郎の次男として生まれる。翌年、親戚の興田家の養子となり興田姓となる。ところが養父母が相次いで他界したため、姓は変えずに実家の浅山家で育つ。
17歳の時に柳川軌道職員や町役場臨時事務雇い中に尋常小学校准訓導の検定試験を受け合格。18歳から4年間、現在の筑後市にある下妻尋常小学校の教員になる(下妻小学校:後に校歌を作詞する)。この頃に、鈴木三重吉主宰の雑誌「赤い鳥」に詩を投稿し、選者の北原白秋(10-1-2-6)に採用され掲載される。北原白秋は同郷の詩人であったことで影響され、また北原白秋も興田の才能を見出し、1926(T15)夏休暇を利用し初めて上京。北原白秋や鈴木三重吉を訪問した。
'27(S2)1月、水田尋常高等小学校の教員となるが、健康を害し、3月に退職。詩作は続けており、この時期は「赤い鳥」に作品が8編、白秋の雑誌「近代風景」を加えると10作品以上掲載されておりプロの作家並みの活躍であった。絵雑誌「コドモノクニ」で『ナカヨシ』が佳作入選。選者をつとめていた北原白秋から誘いもあって、'28上京した。上京後は北原白秋の家に住み込み、子息の家庭教師になる。'29同誌休刊後は、'30巽聖歌らと同人誌「チチノキ」(乳樹)を創刊、詩作に励む。また同.8.15鈴木三重吉の誘いで「赤い鳥」の編集記者として就職する(〜'33)。
'33処女童謡集『旗・蜂・雲』を自費出版。'35処女童話集『猿と蟹の工場』を出版。他に童謡集『山羊とお皿』(1940・児童文化賞)、『レールの歌』(1949)、童話集『五十一番目のサボン』(1951)、『小さな町の六』(1972)など戦前戦後にかけて多くの童謡・童話、詩集、絵本を多数発表。'54『小鳥の歌』に芥川也寸志が曲をつけた唱歌は有名である。北原白秋や西條八十、野口雨情たちによって拓かれた童謡をさらに洗練させ、 芸術としての童謡、あるいは少年詩として読むに耐えうる〈うた〉へと高めることに心血を注いだ。
その他にも、フランソワーズ『まりーちゃんとひつじ』(1956)、カーラ=カスキン『あめのひって すてきだな』(1969)、M.W.ブラウン『ちいさなとりよ』(1978)、『せんろはつづくよ』(1979)などの翻訳、『童謠覺書』(1943)、『私達の詩の勉強』(1951)、『詩と童話について』(1976)、『青い鳥・赤い鳥』(1980)などの評論、郷里のみやま市の小学校や、東京小平市の小学校など全国11校の校歌の詩も手掛けた。
書き手として第一線で活躍する一方、帝国教育会出版部時代には新美南吉をはじめとする書き手たちに出版の機会を与えた。'50日本女子大学児童科の講師に就任してからは、岩崎京子、あまんきみこ、生源寺美子、宮川ひろなどの多くの書き手を育てた。また門下には、まど・みちお らもいる。
'57『からたちの花−北原白秋童謡集』を編者として出版。同年末に『日本童謡集』も編集出版している。この本に金子みすゞ(1930・26歳で自殺)の詩「大漁」を掲載して紹介。後、'84『金子みすゞ全集』を出版して、遺作512編の詩を再び多くの人々に知られるきっかけとなった。
'62日本児童文学者協会の第6代会長。日本ペンクラブ会員。'67『興田準一全集』はサンケイ児童出版文化賞、'73『野ゆき山ゆき 少年少女詩曲集』で野間児童文芸賞を受賞した。'90(H2)児童詩人としての長年の業績に対して、第25回モービル児童文学賞が贈られた。享年91歳。日本基督教団吉祥寺教会にて告別式が営まれた。
<コンサイス日本人名事典> <興田準一記念館プロフィールなど>
*墓石は寝石に「興田家」。上部が墓誌となっており、俗名と生没年月日が刻む。妻はマサ子(1912.3.8-1993.10.28 同墓)。
*墓石は戸籍上の8月2日で刻む。人名辞典では6月25日としている記述を多く見るが、ここでは墓石の刻みを優先する。また「興田」を簡略で「与田」と表記することもある(後世の作品は与田準一とすることが多い)が、それも墓石より興田で統一する。
【「小鳥の歌」(作曲:芥川也寸志)】
ことりはとっても うたがすき
かあさんよぶのも うたでよぶ
ぴぴぴぴ ぴ ちちちち ち ぴちくり ぴ
ことりはとっても うたがすき
とうさんよぶのも うたでよぶ
ぴぴぴぴ ぴ ちちちち ち ぴちくり ぴ
*興田準一記念館(みやま市瀬高町下庄800-1)は、みやま市立図書館内に併設されている。また '82郷里の清水山の清水寺、三重塔の向え西側展望場に詩碑が建つ。毎年10月第3日曜日に「興田準一児童文学祭(むっきっきまつり)」が催されている。「むっきっき」とは瀬高地方の方言で椋(むく)木のことで小さな実は甘く子どもたちが木に登り食べていたからである。
*興田準一はマサ子(旧姓は野田)と、'36.11結婚。2男1女を儲ける。長男は作詞家の橋本淳(本名は興田準介:1939生)、長女はドイツ文学者の興田静(1942生)。次男は直世(1945生)。
*長男の橋本淳は多くの作詞を手掛け、歌謡歌手やグループサウンドのヒット曲の生みの親である。前川清「よろこびの予感」、いしだあゆみ「ブルーライト横浜」、欧陽菲菲「雨のエアポート」、ザ・ピーナツ「ローマの雨」、平尾昌彰・畑中葉子「カナダからの愛」、ブルーコメッツ「ブルー・シャトー」、ザ・タイガース「モナリザの微笑」、オックス「スワンの涙」、郷ひろみ「誘われてフラメンコ」、小柳ルミ子「逢いたくて北国へ」、朝丘めぐみ「恋にゆれて」、岡崎友紀「ママはライバル」、森進一「望郷」、和田アキ子「孤独」、佐々木功「銀河鉄道999」など。
第176回 童謡を芸術にした詩人 ぴちくりぴ 興田準一 お墓ツアー
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