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あかまつ あきこ

赤松明子

あかまつ あきこ

1902(明治34)〜 1991.3.21(平成3)

昭和期の社会運動家

埋葬場所: 8区 1種 13側 18番 [吉野家]

 東京出身。旧姓吉野。名は明。大正デモクラシーの旗手の吉野作造、玉乃(共に同墓)の次女。 姉の土浦信子(1900-1998)は女性建築家。叔父に政治家の吉野信次(8-1-13-19)がいる。
 東京女高師付属女学校卒業後、父の教え子で後に右翼活動家・政治家の赤松克麿(1894-1955)と結婚。 1927(S2)7月、労働争議の応援を契機につくられた総同盟系の労働婦人連盟に参加。 ついで同年11月に結成された社会民衆党系の社会婦人同盟(翌年に社会民衆婦人同盟と改称)の役員となり、ガス料金値下げ、母子扶助法制定、自主的労働組合法獲得などの要求をかかげ、運動をリードした。 また機関紙「民衆婦人」を編集、盛んに執筆を行った。 夫の克麿との共訳でバーバラ・ドレイク『英国婦人労働運動史』('27)、著作『婦人解放論』('29)を著すなど、無産女性運動の右派の立場に立った理論家としても鳴らした。 '32.7.20安部磯雄の提唱した産児制限普及会に参加し、平塚明子、奥むめこらと、必要な場合に堕胎を合法的に行う権利得るために堕胎法改正期成連盟結成した。 満州事変後、社民婦人同盟から抜けて、日本国家社会婦人同盟を創設、主事兼財政部長となったが、まもなく運動から離れた。

<近現代日本女性人名事典>


*赤松克麿の墓所は不明。吉野作造が眠る「吉野家」には赤松明子(刻は赤松明)の刻みはあるが、克麿の名はない。


赤松克麿 あかまつ かつまろ
1894.12.4(明治27)〜1955.12.13(昭和30)
大正・昭和期の右翼活動家、政治家
 山口県徳山市(周南市)出身。祖父は西本願寺の重鎮の赤松連城。浄土真宗本願寺派徳応寺住職の赤松照幢、安子の4男。妹の赤松常子は戦後の参議院議員。弟の赤松五百麿は右翼活動家。妻は恩師の吉野作造の次女の明子。照幢の弟は与謝野鉄幹(11-1-10-14)であるため叔父にあたる。
 1911(M27)徳山中学4年生の時に校長排斥運動を起こし退学処分。'12旧三高に入学。 '15東京帝国大学法科大学政治学科入学。同校教授であった吉野作造は恩師。'18(T7)在学中にロシア革命に影響を受け、宮崎龍介、石渡春雄らと吉野作造の助も受け、新人会を結成。 '19卒業後、東洋経済新報社に勤務し、雑誌「解放」の編集に携わる。'21日本労働総同盟に参加。'22日本共産党に参加、翌年弾圧にあい検挙され、転向。 '24総同盟の方向転換宣言も起草、政治部長となる。科学的日本主義を提唱。'25逓友同志会会長。'26労働農民党から分離して社会民衆党の結党に参画。 日本農民組合総同盟主事。'28(S3)恩師の吉野作造の故郷である宮城1区から第17回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。'30社会民衆党書記長に就任。 '31石川準十郎、津久井龍雄らと共に日本社会主義研究所を創設。 満州事変後公然と国家社会主義を主張したが、党主導権を握れず、'32脱党し、日本国家社会党を結成し党務長に就任(再度国家社会主義から日本主義へ転向。 日本主義を唱え日本革新党へ転ずる)。国民協会を設立。'37北海道4区から第20回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。 日本革新党を結党し党務長となる。陸軍の依頼で上海派遣軍報道部に所属。'40大政翼賛会結成にともない企画部長となり、軍部に協力。 '42第21回衆議院議員総選挙に大政翼賛会非推薦候補として出馬するが落選。戦後'46公職追放。'51解除後、'53日本産業協力連盟理事長に就任。 著書に『社会革命史論』『労働組合運動』『日本労働運動発達史』『日本社会運動の歴史的研究』『日本社会運動史』など。癌により死去。享年61歳。

<コンサイス日本人名事典>
<世界人名辞典など>


 


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