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よしの しんじ

吉野信次

よしの しんじ

1888.9.17(明治21)〜 1971.5.9(昭和46)

大正・昭和期の商工官僚、政治家、県知事

埋葬場所: 8区 1種 13側 19番

 宮城県志田郡大姉村(大崎市)出身。綿問屋を営む父の年蔵と母こうの三男。長兄は吉野作造(8-1-13-18)。作造の娘で社会運動家の赤松明子(8-1-13-18)は姪。
 一高を経て、1913(T2)東京帝国大学独法科卒業。農商務省に入る。農商務大臣秘書官を務めている際に、農商務省が農林省と商工省に分かれたため商工省に移った。 文書課長、工務局長を歴任し、'31(S6)犬養内閣の前田商工大臣の商工次官となる。その後、特許局長官、東北興業総裁、東北振興電力社長を経て、'37第1次近衛内閣の商工大臣に就任。 財政経済不可分の立場から賀屋興宣(9-1-1-8)蔵相と協力、経済統制を開始して戦時経済本格化への途をひらいた。 1938(S13)財界と摩擦を生じて辞職したが、国策研究会を結成するなど革新官僚として重きをなし、同年、貴族院議員に勅選されてからも満州重工業開発副総裁、満州国顧問をつとめ、また翼賛政治会常任総務、'43愛知県知事、東海地方行政協議会長を務めた。
 戦後、公職追放。'53追放解除後、第3回参議院議員通常選挙に参議院宮城地方区から立候補し当選。'55第3次鳩山内閣の運輸大臣として入閣した。他に日本団体生命、東北放送の各会長。'56〜'65武蔵大学学長。享年82歳。

<コンサイス日本人名事典など>


*墓石は洋型「吉野信次家之墓」、裏面が墓誌となっている。妻は君代(1888.9.17-1971.5.9)。君代の父は阿部彌吉で二女として生まれる。右隣りの吉野作造一家の墓所に両親と作造に嫁いだ姉の玉乃が眠る。作造と玉乃・信次と君代、この四人を描いた作品『兄おとうと』(井上ひさし著)がある。


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