広島県広島市出身。旧姓藤井、賀屋家に養子。父は国学者である藤井稜威(いつ)(1853-1898)、母は教育者の賀屋鎌子(同墓)。
二男。賀屋姓は母方の姓である。父と死別し、また母方の父である賀屋明(同墓)も没したため、母が賀屋家相続のため復籍。
4歳の興宣は親族が相談した結果、賀屋家の分家(東京)で、祖父の明の弟の外一郎の妻ハナの家督を継ぐこととなった。
ハナの実家は広島藩士出身の竹内家で、成長の上は竹内家血縁の女子を妻とすることを義務付けられたが、興宣は後に反対を押し切り、庶民家庭の娘である春子(同墓)と相愛の結婚をした。
東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入り、主計課長、予算決算課長と、主に主計畑を務め一貫して陸海軍の予算編成を担当していたため、陸海軍の少壮幕僚たちと親しくなった。
1927(S2)ジュネーブ海軍軍縮会議、'29ロンドン海軍軍縮会議に全権随員として列席。'34(S9)主計局長に就任。
石渡荘太郎(11-1-10-2)、青木一男と並ぶ大蔵省内三羽烏の一人であり、革新官僚として活躍した。'36理財局長に転じ、'37林銑十郎(16-1-3-5)内閣の大蔵次官に就任。
林内閣はわずか4か月足らずで瓦解、代わって組閣した第一次近衛文麿内閣で大蔵大臣に抜擢された。48歳の時である。
「賀屋財政経済三原則」を主張し日中戦争戦時予算の途を開く。'38辞任して大蔵省顧問、貴族院議員、'39北支那開発株式会社総裁。
'41東条内閣の大蔵大臣に復帰し、戦時金融金庫の各設立委員長などを兼ね、日米開戦における戦時予算編成に取り組んだ。
戦時公債を乱発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。その予算編成は中国の資源収奪や大東亜共栄圏の中心としてのブロック経済を視野に入れたものであったため、これが敗戦後A級戦犯に指名された理由とされている。
しかし、実は東郷茂徳外務大臣と共に開戦は終始反対の姿勢であったと言われる。敗戦後、'45.9.11第一次戦犯指名39名の中にリストされ、A級戦犯被告に指定された。'48極東軍事裁判(東京裁判)で終身禁錮刑を宣告され服役。裁判当時は57歳。'55仮釈放。
'56産業計画会議委員に就任。'58正式赦免後、自民党公認として東京都第3区から衆議院議員総選挙に立候補し初当選。以後5回連続当選。
政界復帰後、岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として安保改定に取り組む。'61自由民主党政務調査会長。
自由民主党右派の長老として活動。戦没将兵の遺族互助団体であった日本遺族厚生連盟を「日本遺族会」と改称し右傾化させ、その会長となった。
'63第二次池田内閣の法務大臣として入閣。第三次池田内閣でも留任。死刑執行に否定的な考えであったため、大臣時代の'64は近世で初めて死刑執行を実施せず、辞任するまで死刑執行はなかった。
'72政界引退後、「自由日本を守る会」を組織。台湾擁護などの政治活動を続けた。タカ派ながらも敗戦責任を痛感して勲章を辞退した。享年88歳。