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かや かねこ

賀屋鎌子

かや かねこ

1861.2.3(文久1)〜 1915.4.27(大正4)

明治・大正期の教育者、婦人活動家

埋葬場所: 9区 1種 1側 8番

 広島藩内証分家の江戸青山屋敷にて、江戸詰広島藩士の賀屋嘉仲太(明)と後妻の嘉重子(共に同墓)の長女として生まれる。 父の弟で心学者である賀屋忠恕(同墓)は叔父。政治家の賀屋興宣(同墓)の母。
 1868(慶応4)広島に一家で帰国。幼い頃より読書・習字・裁縫を父母や叔父の忠恕から習う。 1873(M6)伊達権令が広島最初の職業婦女子のために開設された学校の女紅場「玉暎舎」に母の嘉重子とともに教師として招かれ、11歳にして数学や読み方を教えた。 1876玉暎舎休校後、旧家老上田家の儒者で造成舎(本川小学校の前身)の山口文造について漢学を学び、文造が私塾(敬業堂)を開くとその助手として採用された。1880文造没後、門下生を引き受けて、鷹匠町の自宅に松柏館を開いて教育に従事。
 1882皇学を神宮教広島教会の藤井稜威から学び、翌年その縁から藤井稜威と結婚。就宣(なりのり)(1929没 同墓)、興宣の二子の母となる。 心学を叔父の忠恕からも学び、忠恕が神宮教会の教導職となるに及んで、鎌子も神道に入り、1884神道神神宮教教導職試補に任じられた。 1883廿日市で初めて神宮教の説教を行い、各地から招聘されることが増えたため、私塾は廃校となった。1893神宮教権中講義。 1994日清戦争、自宅に京極の細川子爵の宿舎として提供し、その接待につとめた。
 1898(M31)夫の藤井稜威、父の明が死去したため、賀屋家に復籍。 その後は、1898広島婦人慈善会を設立し会長、翌年日赤篤志看護婦人会広島支会相談役、1902愛国婦人会広島支部幹事、1903芸備婦人慈善会評議員、1908女中興風会を設立、同年平和会設立し会主と、多くの会員を集め慈善教化に尽した。 また、石門心学に入会、日露戦争時には軍人を自宅に宿泊させ慰安につとめるとともに、精神教育を施す。 「国民の発展は女子の双肩にあり」を持論とし、風教を改良し民衆を教化するため、県内はもとより隣県までも講演して歩いた。 主に教育勅語より考道に関する講演を行い、聴衆は千名を超し、非常に盛況を呈したという。享年54歳。

<日本女性人名辞典など>
<五輪塔様より情報提供>


【女紅場(じょこうば)】
 1872(M5)京都に開設され、全国に広まった。手仕事・裁縫・養蚕・紡績・機織りなど、当時の女子の実践的な教育を施す教育機関である。 芸娼妓のための教育機関としての性格を含むものもあった。広島では1873西地方町淨国寺に造成舎の分校として創設された「玉暎舎」が最初の女紅場で、当初12歳から31歳までの47名の生徒がここで学んだ。 この玉暎舎では男子は教鞭を取ることは許されなかったため、教員となったのは鎌子の伯母の安井正であった。 そしてその娘で10歳の安井近子と、11歳の鎌子がともに助手として、また「生徒長」として生徒の薫陶に従事した。 翌年、近子が去った後には鎌子が「助教師」の肩書を与えられ、母の嘉重子と教壇に立った。しかし、生徒の問題や経営難のため、玉暎舎で実際に授業が行われたのは最初の五か月だけで、1876.9(M9)休校となった。

<賀屋家文書展 賀屋家の人々(広島県立文書館)>


*墓所正面「賀屋氏興都城」と刻む。墓石裏面に右から「明 大人」「嘉重刀自」「鎌子刀自」「就宣」「忠恕大人」「忠恕の妻の名」の六名が刻む。賀屋興宣以降は墓所左手の墓誌に刻む。藤井稜威の刻みはない。


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