江戸霞ヶ関広島藩邸向屋敷にて生まれる。父は賀屋千之丞就道。明(同墓)の弟。明の娘で教育者、婦人活動家の鎌子(同墓)は姪。鎌子の二男の興宣(同墓)は政治家。
江戸の心学講舎参前舎で平野橘について心学を学ぶ。1868(慶応4)兄に従って広島に帰国し、その後も心学者たちと切磋琢磨し、広島の心学講舎歓心舎(かんしんしゃ)の第四代舎主となった。
18世紀始め、京都の町人石田梅岩によって創始された心学は、自らの心の内面を磨くことによって、倹約・堪忍・正直・忠孝等の封建道徳を実践することを説いた学問である。
利潤追求を正当化し、講席という公開講義で例え話を用いて民衆にもわかりやすく説いたため、始め商人に支持され、次第に武士階級まで広まった。
明治維新後、広島藩は民衆を教化するため心学者を利用しようとした。この時採用されたのが、忠恕や宮本愚翁(1839-1903)らである。
忠恕ら心学者は、藩命によって領内を巡回して心学による教化を行ない、庶民もこれを感激して迎えた。
特筆すべきことは、三谿郡向江田村(三次市)と岡田村(双三郡三良坂町)との境界の紛争に対して、村民に道を説き、徳を重んじるよう諭したことにより、村民は感激し、境界を両村が協同して開墾するにまで至ったことがある。
これを「両熟田」と呼び、石碑が建立されている。それら功によって広島藩から毎年米17俵を給されている。
廃藩置県後1872(M5)教部省が設置されると、心学は国家神道に結合されることにより、心学者の多くは教導職に任命され、続いて民衆教化にあたった。
忠恕も教部省から訓導職に任じられた。教部省は神道・仏教や国民教化に関することを管掌する官庁で、中央に大教院、地方に中教院を設置し、教正以下講義・訓導など14級の教導職を置いて、布教に当たらせた。
主に神官や僧侶たちが教導職に任じられたが、忠恕のような知識人や心学者もこれに取り込まれていた。ただし、旧来の心学をそのまま説くことは許されていなかった
。明治政府は当初、神紙官を太政官の上に置いて、神道による「祭政一致」をはかり、1870(M3)天皇の名のもとに大教宣布の詔を発するなど、神道による国民教化をはかった。
しかし、その方針を徹底することは無理で、廃藩置県後は新設された教部省(M5〜M10)が仏教・神道を含めた全宗教を統括し、大教宣布運動を展開し、国民教化にあたることとなった。
1882神宮教管長(神宮教呉権大講義)となり、神宮教布教活動を手伝った。享年56歳。