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かや あきら

賀屋 明

かや あきら

1825(文政8)〜 1898.6.7(明治31)

幕末・明治期の江戸詰広島藩士、教育者

埋葬場所: 9区 1種 1側 8番

江戸生まれの広島藩士。父は賀屋千之丞就道。旧名を嘉仲太就熈(かちゅうたなりおき)。弟に心学者の賀屋忠恕(同墓)。 長女の鎌子(同墓)は教育者であり、国学者の藤井稜威に嫁ぎ、政治家となる賀屋興宣(同墓)を産むも、夫と死別したため賀屋家に復籍した。 なお、靖国神社宮司を務めた賀茂百樹(10-1-4)は藤井稜威の弟であるため親戚関係。
 賀屋家は江戸時代に江戸詰の広島藩士(広島藩家中のほとんどは広島城下に居住していたが、江戸・大阪藩邸、京都にも多くの藩士が勤務しており、江戸で勤務することを江戸詰という)で、1767(明和4)広島藩士の賀屋嘉仲太就正が江戸詰を命じられ、1868(慶応4)明が帰国を命じられるまで、賀屋家は参勤交代などの一時帰国を除く約百年間、四代にわたって江戸で勤務した。
 1840(天保11)若くして父の千之丞が病死したため、翌年家督を継いだ。1858(安政5)江戸で広島藩内証分家御用達役となり、1861(文久1)御住居附御広敷御用人に進む。武器を愛好し、これを「武士の魂」とする人であったといわれ、特に刀剣に通じた。 明治維新とともに一家で広島へ帰国。城下鷹匠町に屋敷を賜った。1869(M2)広島藩公用人を拝命し、翌年、藩知事の浅野長勲侯爵から直々に「明」と改名するよう命じられ、その通り改名を願い出た。浅野家の家扶となる。
 廃藩置県により免職となり、その後は、娘の鎌子や弟の忠恕、娘婿の藤井稜威の神宮教布教活動を手伝い、1884自ら神宮教広島区内教徒取締に任じられた。同年、神風講社事務取扱所設立願書提出。享年73歳。 明の後妻であり鎌子の母は、上総久留里藩黒田家の家老杉原右門の嘉重子(M34没)である。嘉重子は加賀百万石の奥女中を務めたこともあり、女紅場「玉暎舎」にて教壇に立ち、礼儀作法・習字・図画を教えた教育者でもある。

<賀屋家文書展 賀屋家の人々(広島県立文書館)>
<賀屋興宣「私の履歴書」など>


*「嘉重子」の名を「嘉恵子」とする文献もあるが、墓裏面に刻む「嘉重」をここでは統一して使用します。

*墓所正面「賀屋氏興都城」と刻む。墓石裏面に右から「明 大人」「嘉重刀自」「鎌子刀自」「就宣」「忠恕大人」「忠恕の妻の名」の六名が刻む。賀屋興宣以降は墓所左手の墓誌に刻む。藤井稜威の刻みはない。


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