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いしわた そうたろう

石渡荘太郎

いしわた そうたろう

1891.10.9(明治24)〜 1950.11.4(昭和25)

昭和期の大蔵官僚、政治家

埋葬場所: 11区 1種 10側 2番

 東京出身。政治家の石渡敏一・鉚子(共に同墓)の長男。
 一高を経て、1916.5(T5)東京帝国大学法科大学法律学科英法卒業。同年大蔵省入省し、税務監督局に配属され、大阪税務監督局に入るも、同.11休職し、翌月より1年志願兵として入営。'17.11陸軍2等計手として満期除隊し予備役編入し、翌月に税務監督局属兼大蔵属・東京税務監督局・参事官付として復帰した。
 '18.8副司税官・幸橋税務署長となり、'19.12司税官、'21.7税務監督局事務官・大阪税務監督局経理部長、'23.4大阪税務監督局間税部長、'22.6東京税務監督局間税務部長、同.12大蔵事務官・主税局国税課、'24.5主税局臨時土地賃貸価格調査課、同.11兼 大蔵書記官・主税局臨時土地賃貸価格調査課長を歴任し専ら税務畑を歩いた。
 '28.9〜'29.1(S3〜4)スイス・ジュネーブ開催の二重課税防止国際会議帝国委員として渡欧。帰国後、主税局臨時土地調査課長、'31.5大蔵書記官・主税局国税課長 兼 同局臨時土地調査課長、'34.5兼 大臣官房秘書課長 兼 大蔵大臣秘書官、同.7兼 銀行検査官を経て、同.12大蔵省主税局長に就任した。
 '36.3内閣調査局調査官(企画院の前身)に転出。当時は賀屋興宣(9-1-1-8)・青木一男とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、内閣調査局に事実上の左遷となるかたちとなった。同.12〜'37.2内閣調査局長菅心得を経て、'37.2再び大蔵省主税局長を任ぜられた。
 '37.6深まりゆく軍事財政化の中で税制事務の第一人者とされ、学友でもあった近衛文麿を助けるため、第一次近衛文麿内閣の大蔵次官となる。'39.1平沼騏一郎(10-1-1-15)内閣の大蔵大臣(蔵相)として入閣。外相の有田八郎(9-1-1-2)、海相の米内光政とともに日独伊三国同盟に反対を貫いた。同.8平沼内閣解散とともに辞職。同.9〜'40.1大蔵省顧問となる。
 '40.1勅任官ではなく親任官待遇として米内光政内閣の内閣書記官長に抜擢された。同.7.16貴族院勅選議員となる(〜'45.6.9)。同.12大蔵省顧問(〜'44.2)。'42.10外務省外交顧問(〜'44.2)。同年汪兆銘政権の最高経済顧問として南京に赴任。同.2.9満州国建国神廟創建記念章 及び 満州国勲二位景雲章。
 帰国後、'44.2太平洋戦争中の東條英機改造内閣で大蔵大臣(蔵相)となり、小磯國昭内閣でも留任(〜'45.2)し、'45.2〜同.4 国務大臣 兼 内閣書記官長を兼務した。同.4.18勲1等瑞宝章。同.6〜戦後の'46.1まで宮内大臣を務め、敗戦前後の混乱に対処した。敗戦後の公職追放中に病を得て逝去。享年59歳。正3位。

<コンサイス日本人名事典>
<大蔵省人名録>


墓所 胸像

*墓石は和型「石渡家之墓」。裏面に「昭和十三年十一月 石渡荘太郎 建之」と刻む。墓誌はない。妻は久子。

*墓所入口右側に「石渡敏一・鉚子の像」が建つ。この像は、1933(S8)山本豊市の作で、2011(H23)石渡荘太郎家よりこの場所に移設した旨のプレートが貼られている。

*石渡敏一の父は石渡栄次郎。石渡敏一の妻の鉚子(りう)は旧幕府海軍の徳田幾雄の長女。子は6男4女を儲ける。長男が石渡荘太郎。二男の敬二郎は徳田家に養子。三男の石渡六三郎は北支那開発や英語翻訳者。四男の石渡忠四郎は日本勧業銀行や国民金融公庫副総裁。五男の石渡慎五郎は満州国官僚。六男の石渡達六郎は日本哺乳動物学会で活動。長女は早死。二女の葉は住友化学社長を務めた実業家の大屋敦に嫁ぐ。三女の音羽は木村房五郎に嫁ぐ。四女の球は遠藤完太郎に嫁ぐ。


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