東京出身。本籍は愛知県名古屋東区であり、旧姓は小川。神戸太洋商工取締役の小川龍雄の二男として生まれる。戦前・戦後の政治家の賀屋興宣(同墓)の長女の和子(同墓)と結婚し婿養子となる。
1935(S10)東京帝国大学法学部法律学科卒業。在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は大蔵省に入り、大蔵属・大臣官房文書課に配属された。'36.7 専売局書記 兼 大蔵属・専売局長官官房 兼 大臣官房財政経済調査課、同.12 財務書記として米国駐在のため渡米。'39.1 大蔵属・理財局に籍を移し、同.4 まで欧州出張。帰朝後は大蔵事務官・理財局に配属となり、同.7 銀行局に移った。'40.10 銀行検査官を兼務し、'42.11 大蔵省監理官・銀行局を更に兼務した。'43.11 銀行保健局、'45.5 金融局に移り、同.8 終戦後に戦後緊急対策企画室付となった。
'46.1 戦後も大蔵省に留まり、大蔵書記官・金融局、同.2 銀行局特殊金融課長となり、同日付で金融緊急措置相談部部員を兼ねた。同.7 理財局国庫課長、'49.3 外資委員会事務局次長、同.9 〜'52.8 外資委員会事務局長に就任。
'51.4 経済安定事務官、同.8 米国出張(〜同.11)。'52.8 大蔵事務官・大蔵官房財務調査官、'53.2 アルゼンチン、米国、英国、仏国に出張(〜同.5)、'53.11 銀行局検査部長に着任した。'55.5 内閣総理大臣官房審議室参事官を経て、同.11 内閣総理大臣官房審議室長、'57.6 大蔵省理財局次長を歴任し、同.11 管財局長に就任した。次いで、'60.4 為替局長を務め、'61.6 辞職。辞職後は日本開発銀行理事に着任。'62.6 日本銀行理事、'67.4 商工組合中央金庫副理事長に就き、'69.11 辞任した。辞任後は山一証券投資信託委託会社社長などを務めた。
'79 亡き賀屋興宣を偲んで「大蔵省時代・大臣・日本遺族会会長」生涯の活躍の思い出を各界名士が語る『渦の中 賀屋興宣遺稿抄』の編著を興宣の長女で妻の和子と共にまとめ刊行した。'82 勲2等瑞宝章。享年81歳。
*墓所正面「賀屋氏興都城」と刻む。墓石裏面に江戸詰広島藩士の賀屋明や、賀屋興宣の母で教育家の賀屋鎌子らの刻みがある。左側に墓誌が建ち、賀屋春子、興宣、正雄、和子の順番で刻む。
*妻の和子(H10.6.9歿・享年77才)は賀屋興宣・春子の長女(一人娘)。正雄が婿養子となり、2男1女を儲ける。長男の賀屋宣雄(1942-)は新日本製鉄・日鉄ライフに勤める。二男の賀屋明雄(1946-)は三菱銀行の銀行家。長女の恵子は博報堂の湯浅興に嫁いだ。
*平沼騏一郎、平沼恭四郎(共に10-1-1-15)が住む平沼家の家が近く交流があり、当時、学生であった恭四郎の子の平沼赳夫(後に政治家)が賀屋正雄の子どもたちの家庭教師をしていた。なお、平沼赳夫が佐藤栄作の秘書になるための口利きをしたのは賀屋興宣である。