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みなかみ たきたろう

水上瀧太郎

みなかみ たきたろう

1887.12.6(明治20)〜 1940.3.23(昭和15)

明治・大正・昭和期の小説家、評論家

埋葬場所: 5区 1種 16側 6番
阿部家之墓・右から2番目

 東京出身。本名は阿部章蔵。筆名を水上滝太郎と表記するときもある。明治生命創業者の阿部泰蔵、優子(共に1-1-2-11)との4男。養祖父は蘭方医、歌人の阿部三圭(1-1-2-11)、長兄に実業家の阿部圭一(1-1-2-11)。次兄の阿部泰二(5-1-16-7)は銀行家。弟に柔道家・実業家の阿部英児(5-1-16-3)。妹の とみ は慶應義塾塾長を務めた小泉信三(共に3-1-17-3)の妻で画家としても活動した。なお小泉信三とは学友で同期生。
 慶應義塾大学理財科に進むが、文科の永井荷風や小山内薫の講義を視聴し、泉鏡花や与謝野鉄幹や与謝野晶子(共に11-1-10-14)に傾倒。1911(M44)在学中、荷風主宰の「三田文学」に短編『山の手の子』を発表。久保田万太郎とともに、三田派新進作家として知られた。戯曲『嵐』を発表した時に「水上瀧太郎」名義で発表した。筆名は泉鏡花作品の作中人物(「風流線」の水上規矩夫、「黒百合」の瀧太郎)に由来する。
 '12 大学を卒業し、米国留学。ハーバード大学で経済学を学ぶ。この時期に短編集『処女作』を刊行。'15 パリでも学び、'16 帰国。帰国後は、父が創業した明治生命保険相互会社に入社。会社勤めと作家活動を両立。
 '17 大阪支店副長として転勤。'18 「三田文学」に随筆『貝殻追放』の連載を始める。'19 東京に戻る。'21 都(同墓)と結婚。大阪時代の経験をもとに書いた『大阪』『大阪の宿』を連載し後に代表作となる。また、'25 一時休刊となった三田文学を翌年復刊させ、久保田万太郎らとともに編集委員となる。この際、金銭的援助の他、無償で寄稿していたとされる。随筆『貝殻追放』も書き続けた(203編:'18-'40)。加えて「精神的主幹」として後進の育成にも尽力した。泉鏡花を囲む九九九会の世話人も務める。
 '29(S4)慶應義塾評議員。'31.7.30 待望の第一子長男の優蔵(同墓)が誕生した。この時44歳であった。その後、'33 明治生命取締役、'39 大阪毎日新聞社取締役を務めた。
 主な作品に『海上日記』『日曜』『その春の頃』『心づくし』『倫敦の宿』『遺産』『銀座復興』など多数発表。水上の文学は強い道義性と文明批評性に特色をもち、健全なモラリストの精神に貫かれた作風で、実生活においても多くの敬愛を集めた。生涯実業家と文学者の二重生活を続けた。この生き方に対し、文壇の一部などには批判的な見方をする人もあったが、芸術家の生活が二重であるかないかは、衣食の資を得る道が二つか一つかによって決めるものではない。その制作の態度が生一本なら二重でなく、心にもない文章を書いて収入を得ることこそ芸術家の恥ずべき二重生活であると反撥して、文筆と実業の二筋道を歩き通した。
 '40.3.23 午後2時20分、丸の内の明治生命会議堂で開催された婦人社員の「銃後の娘の会」の発会式で、専務取締役として挨拶をした。その直後、脳溢血で倒れ、そのまま午後11時10分に逝去。享年52歳。没後、'49 三田文学内で水上瀧太郎賞が設けられた。

<コンサイス日本人名事典>
<小学館 日本大百科全書>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<講談社日本人名大辞典>
<慶應義塾百人>
<人事興信録など>


*墓石前面「阿部家之墓」、右面に歌舞伎研究家・演劇評論家として活躍した長男の阿部優蔵(H22.7.16歿・行年79歳)、優蔵の戒名は「慶德院明阿海勢優蔵居士」のみが刻まれてる。水上瀧太郎(本名の阿部章蔵)や妻の都の刻みはない。なお多磨霊園管理事務所で配布されているパンフレットの著名人墓所一覧に水上瀧太郎がこの墓所番地として書かれている。なお水上瀧太郎の戒名は賢光院智阿文徳章蔵居士。

*長男の阿部圭一と早死した3男を除いた兄弟7人はそれぞれ分家したため、5区1種16側に阿部家の墓所がそれぞれ七か所、右から生まれた順で並ぶ。泰二の右隣りの墓所は、母の優子の父の俣野景明(5-1-16-8)の墓所。保野景明は別名が俣野市郎右衛門と言い戊辰戦争で活躍した志士で福沢諭吉の門下でもある人物。景明の墓所の右隣りは俣野景蔵(5-1-16-9)の墓所。保野景蔵は明治生命保険の監査役を務めた人物。瀧太郎の妻は俣野景蔵の娘(長女)の都で、景蔵の二女の富美(次女)は阿部英児(5-1-16-3)に嫁いでいる。俣野景蔵は俣野景敏(谷中霊園)の三男であり、兄で次男は教育者の俣野時中(8-1-9)。時中の子で甥は洋画家の俣野第四郎(8-1-9)。景蔵の孫の俣野夏男は波多野憲(5-1-16-9)という名で俳優。

*妻は明治生命保険監査役を務めていた俣野景蔵(5-1-16-9)の娘(長女)の都で、'21 結婚。なお、弟で柔道家で実業家の阿部英児(5-1-16-3)の妻は都の妹(次女)の富美。俣野景蔵は母方祖父(母の優子の父)の俣野景明(5-1-16-8)の一族(俣野本家の墓は谷中霊園)。義伯父(俣野景蔵の兄)は教育者の俣野時中(8-1-9)。時中の子は洋画家の俣野第四郎(8-1-9)。景蔵の孫の俣野夏男は波多野憲(5-1-16-9)という名で俳優。


【阿部一族墓所】
 阿部泰蔵墓所を継承した長男の阿部圭一と、早死した泰蔵の三男の阿部文吉は 1区1種2側11番に眠る。阿部泰蔵と優子との間に生まれた8男(長男の圭一は前妻との子なので含まず)で、早死した3男を除いた男子7人はそれぞれ分家。5区1種16側に阿部家の墓石が7基並び、早死した3男を除く分家した次男から9男の墓所が右から生まれた順で並ぶ。
 正面左端の墓石から紹介する。

阿部秀助

阿部秀助 (1902.9生)
阿部泰蔵と優子との9男
洋型「阿部秀助 / 才子」 (5区1種16側1番)
 阿部秀助は講道館の7段、実業家。妻の才子は栗野慎一郎の長女。栗野慎一郎は近代日本への歩みに大きく貢献した外交官・子爵。墓は横浜市鶴見区の總持寺。


阿部芳郎

阿部芳郎 (1901.8生)
阿部泰蔵と優子との8男
洋型「阿部芳郎 / 喜美子」、裏面は芳郎 (1901.8.25-1970.9.20)と喜美子
(1907.1.7-1997.1.23)の生没年月日が刻む。(5区1種16側2番)
阿部芳郎は王子製紙の取締役などを務めた実業家。講道館の7段。妻の喜美子は製紙王と称された王子製紙初代社長の藤原銀次郎の養女。藤原銀次郎の墓は東京の築地本願寺和田堀廟所。


阿部英児

阿部英児 (1899.12生)
阿部泰蔵と優子との7男
自然石「阿部家之墓」 (5区1種16側3番)
 阿部英児は大日本精糖で専務取締役や工場長を務めた実業家。講道館の8段。大六とは双子の弟。※阿部英児の頁へ


阿部大六

阿部大六 (1899.12生)
阿部泰蔵と優子との6男
墓石前面「阿部家之墓」、右面「昭和七年三月 阿部大六 建之」 (5区1種16側4番)
 阿部大六は東邦電力に勤めた実業家。中部電力の常務取締役、中電ビル株式会社設立され社長を務めた。講道館8段。1929 昭和天皇即位の礼(御大礼)を記念し御大礼記念天覧武道大会に英児と共に選抜され出場した。


阿部舜吾

阿部舜吾 (1892.8生)
阿部泰蔵と優子との5男
墓石前面「阿部家之墓」、裏面「昭和十五年五月 阿部舜吾 建之」 (5区1種16側5番)
 阿部舜吾は横浜正金銀行に勤めた銀行家。また金魚愛好家としても著名で『金魚愛玩六十年 飼育体験録』の本を出版している。妻は保(旧姓は松崎)、長男は吾朗、長女は早死、二女は花子、三女は久子、四女は咲子。


阿部章藏

阿部章藏 (1887.12生)
阿部泰蔵と優子との4男
墓石前面「阿部家之墓」、右面に阿部優蔵の戒名や没年月日、行年のみが刻む。(5区1種16側6番)
 阿部章藏は明治生命保険の実業家と、筆名を水上瀧太郎としての作家活動の二足の草鞋で活躍。


阿部泰二

阿部泰二 (1880.4生)
阿部泰蔵と優子との2男
墓石前面「阿部家之墓」、裏面「昭和十七年五月建之」 (5区1種16側7番)
 阿部泰二は日本銀行に勤めた銀行家。妻は玉枝子(旧姓は古川)。※阿部泰二の頁へ



第512回 墓が並ぶ 阿部一族 作家と実業家の二足の草鞋
水上瀧太郎(阿部章藏) お墓ツアー


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