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あべ さんけい

阿部三圭

あべ さんけい

1815〜 1867(慶応3.5.15)

江戸後期の蘭方医、歌人

埋葬場所: 1区 1種 2側 11番

 耶村(引佐郡三ヶ日町)儒医玄岑の長男として生まれる。若くして長崎に留学し、蘭方医術を修めて帰郷。摩訶耶寺門前でその仁術を施し、名声は近郷に広がる。後年、三河(豊橋市)吉田藩主松平伊豆守に召されて藩医として仕え、西洋医学の先達として活躍した。医術学友と協力して、遠江地方に早く種痘を導入した功労者でもある。
 業績の一つに蘭学算法によって郷里摩訶耶村の新田開発に協力、「岩井の堰」の設計が残されている。また、国学歌道にも執心し、石川依平に入門して本格歌人として精進した。
 明治生命保険会社創立の功労者阿部泰蔵(同墓)の養父。泰蔵は愛知県鳳来町豊田鉱剛の4男、12歳で三圭の養子となる。享年53歳(墓誌には数え年で刻む)。

<静岡県歴史人物事典021頁>
<五輪塔様より情報提供>


阿部國子 あべ くにこ
1829(文政12)〜 1917.1.30(大正6)
阿部三圭の妻、泰蔵の養母
 静岡県出身。竹村又七の4女。旧姓は竹村。明治を迎える前に夫と死別。養子の泰蔵の子ども9男4女と子沢山であったため養育に尽力。晩年は鎌倉の別邸に病気療養であったが逝去。葬儀は東京市芝白金下町の松秀寺で執り行われた。

<大正過去帳117頁>
<五輪塔様より情報提供>


*正面門入口の近くに広大な敷地を持った「阿部家之墓」が建つ。建立年月日は「大正13年」で泰蔵死後の建立。右側手前に墓誌が建つ。墓誌は阿部三圭から刻みが始まる。阿部國子のところには「泰蔵養母」と刻む。阿部泰蔵は先妻の幾野との間に長男の阿部圭一を儲けたが、先妻と死別後、後妻の優子との間には8男4女を儲けている。長男の圭一と早死した3男の文吉は同墓に眠る。他の男子7人はそれぞれ分家したため、5区1種16側に阿部家の墓所がそれぞれ七か所、右から生まれた順で並ぶ。泰蔵の2男の阿部泰二(5-1-16-7)は銀行家。泰蔵の4男の阿部章蔵は水上瀧太郎(5-1-16-6)の筆名で活躍した作家。7男の阿部英児(5-1-16-3)は柔道家・実業家。なお、同じ列には泰蔵の後妻の優子の父である俣野景明(5-1-16-8)の墓所もある。


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