メイン » » » 阿部泰蔵
あべ たいぞう

阿部泰蔵

あべ たいぞう

1849.4.27(嘉永2)〜 1924.10.22(大正13)

明治・大正期の実業家(保険)

埋葬場所: 1区 1種 2側 11番

 三河国(愛知県)吉田藩の医家豊田鉉剛の3男、阿部三圭(同墓)の養子。
 藩儒太田魯作らに漢学を学び、さらに津藩の斎藤拙堂の門に入る。かたわら蘭学を学び、17歳のとき上京し、蘭学・英学を研究した。 1868(M1)慶応義塾に入り、戊辰戦争に際して藩命により帰藩し、各地に転戦。 のち再び塾に入り、卒業後同校教授・塾頭となる。70大学南校で英語を教え、のち文部省少教授編輯権助に任じた。74翻訳局に入り、76〜77渡米、79官を辞す。
 荘田平五郎とともに明治生命保険会社を設立し社長に就任。 91明治火災保険会社を設立して社長となり、東京海上保険会社取締役・交詢社理事を兼ね、1907東明火災保険会社を設立してその取締役となる。 また東京商業会議所特別議員・日本郵船取締役・生命保険協会理事長をつとめた。 小説家の水上滝太郎(5-1-16-6)、小泉信三(3-1-17-3)の妻で画家としても活動した富子(とみ)の父である。

<コンサイス日本人名事典>


*正面門入口の近くに広大な敷地を持った「阿部家之墓」が建つ。
右側手前に墓誌が建ち、養父の三圭・泰蔵・長男の圭一・その子供で孫の一蔵、繁、武などの名前を見ることができる。 建立年月日は大正13年で泰蔵死後の建立であるとわかる。 また、5区1種16側には12基並ぶ墓所のうち阿部家一族の墓所であり、2基が阿部泰蔵の後妻の阿部優子の生家である保野家墓所である。 右側が保野景蔵、左が優子の父親の保野景明の墓所。保野景明は別名が俣野市郎右衛門と言い、戊辰戦争で活躍。従七位。
 各墓石には建立者あるいは、前面にフルネームを刻むのみであり、埋葬者の戒名や墓誌はない。 阿部家の右から二番目、建立者が滝太郎の長男である優蔵となっているのが水上滝太郎の墓石である。 建立年月日が右から左へと順番に建っている。 右端から泰二と泰明の二名の名のみ。三基目から以降の建立者は、右から順番に、舜吾、大六、英之輔、芳郎、秀助である。

*養父である阿部三圭は江戸後期の蘭方医、歌人。泰蔵の後妻の阿部優子の子に作家となる水上滝太郎や小泉信三に嫁いだ小泉とみがいる。


阿部優子 あべ ゆうこ
1862(文久2)〜 1938.5.26(昭和13)
阿部泰蔵の後妻
 鶴岡藩士の俣野市郎右衛門景明の長女。1877(M10)7月、16歳で泰蔵の後妻となる。 泰蔵は慶応義塾の塾頭だった。八男四女(長男は先妻の子)の養育に尽す。 1879(M12)泰蔵は明治生命を創始、更に明治火災をつくり両社の社長となった。 その後東京火災、日本郵船取締役、生命保険協会理事長を兼ねる。1924(T13)夫と死別した。享年は77歳。

<庄内人名事典119頁>
<五輪塔様より情報提供>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。