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あべ えいじ

阿部英児

あべ えいじ

1899.12.16(明治32)〜 1969.10.25(昭和44)

大正・昭和期の柔道家、実業家

埋葬場所: 5区 1種 16側 3番

 東京出身。明治生命創業者の阿部泰蔵と優子(共に1-1-2-11)との7男。6男の阿部大六(5-1-16-4)とは双子(双生児)。養祖父は蘭方医・歌人の阿部三圭(1-1-2-11)、長兄に実業家の阿部圭一(1-1-2-11)、次兄に銀行家の阿部泰二(5-1-16-7)、四兄に作家の水上瀧太郎(5-1-16-6)、姉の とみ は慶應義塾塾長を務めた小泉信三(共に3-1-17-3)の妻で画家としても活動した。
 慶應義塾入学後、慶應義塾體育會柔道部にて柔道家の飯塚国三郎に柔道を学ぶ。大六や弟の芳郎、秀助も柔道に取り組む。内股の名人として有名な柔道家の中野正三にも師事した。慶應義塾大学時代は主将として兄の大六らと共に名門柔道部の礎を築き、全国に「慶應に阿部兄弟あり」とその名を轟かせた。スポーツ万能であった英児は、柔道以外にも慶應義塾に13あった体育会系クラブのうち11クラブを兼任するなど活躍した。
 1923(T12)慶應義塾大学法学部を卒業し、大日本製糖に入社。会社員の傍ら柔道は継続。'24.1 講道館5段となる(24歳)。
 '29.5.4-5(S4)昭和天皇即位の礼(御大礼)を記念し御大礼記念天覧武道大会が開催されると、名誉ある指定選士32人の内の1人として、非専門家の身ながら柔道を生業とする専門家29人と並び選抜された。慶應義塾卒業生からは兄の大六、浅見浅一、山川渉の4名が選ばれ出場。大会はリーグ戦を勝ち抜き、準決勝まで進み、栗原民雄 6段と白熱の攻防戦で試合時間30分でも勝敗が決まらず、審判の裁定により栗原の勝利となった。大会後に「勝ったのは幸運、負けたのは未熟のため」と謙虚に述べ、「今後はますます自重努力したい」とコメントしている。敗れはしたが、栗原が負傷していた右足に技を掛けることはせず、試合中に相手の指が自分の眼球を突かれるアクシデントがあったが負傷アピールもせずに、最後まで潔く試合を戦い切った英児に対して、対戦相手の栗原は「阿部という人は偉い人だ、実に見上げた男だ」と讃えられ、柔道評論家からも「堂々たる風格、少しも驕り高ぶる所無く、攻防おのずから理にかなう試合ぶりは、見る者をして悉く恍惚とさせるものがあった」と言わしめた。
 その後、柔道大会に出場することはなく、大日本製糖の会社員としての道を歩む。'48.5.4 講道館8段(48歳)に昇段した。人当たりが柔らかく、親身になって後輩の面倒を見るなど良い指導者でもあり、人情味豊かな英児に対する社員の信望は非常に厚かったと同時に、目上の人からの信頼もあり、政財界の重鎮の藤山雷太(11-1-2-2)らに可愛がられ交流を深めた。
 太平洋戦争中は台湾の工場に赴任。終戦後に引き揚げる。戦後、日糖興業に社名を変えた大日本製糖の社員を継続、後に常務取締役に就任。終戦直後の日本では精糖業は商売にならず、細々と酵母を製造して闇屋のような真似をし何とかやり繰りする日々が続いた。従業員を路頭に迷わせまいと苦心していた時に、藤山雷太の息子で慶應義塾柔道部の二年先輩の藤山愛一郎(11-1-2-2)が率いる日東化学が救いの手を差し伸べてくれ難局を乗り越えた。'49 社名を日糖興業から大日本製糖に戻す際には周囲からの大反対があったが実現させた。その後、横浜工場長などを務め、入社以来30年以上の永きに渡り製糖マンとして活動した。
 '53 政府による砂糖の販売統制が解除され自由化される。雑誌『商工経済』に「これまでの製糖業は黒い物を白くして報酬を受け取るだけで、言ってみればクリーニング屋のようなものだった」と自虐した上で、「これからは各社の技術、のれん、販売力の違いがモノを言うようになる」「有利に原料を買い付ける手腕の如何で(企業間の)勝負が決せられる事になり、商売はこうならなければ面白みがない」と経営者としての抱負を語った。また同年、雑誌「経済時代」に『日糖精神に生きる阿部英児』と特集されている。
 '54 贈収賄事件の造船疑獄が発覚した際には東京第一検察審査会長に選出され、同事件の審査を担当した。狭心症により自宅で逝去。享年69歳。兄の大六は講道館8段、自身も8段、弟の芳郎と秀助は7段であったため、4人兄弟合わせて30段は、講道館史上唯一無二の記録となっている。

<柔道名鑑>
<人事興信録など>


*自然石「阿部家之墓」。それ以外の刻みはない。

*妻は明治生命保険監査役を務めていた俣野景蔵(5-1-16-9)の二女の富美(1906生)。長男は阿部英之輔(1926-)、長女の優梨子(1928生)は外交官・外務官僚の松永信雄に嫁いだ。

*早死した3男を除いた兄弟7人はそれぞれ分家したため、5区1種16側に阿部家の墓所がそれぞれ七か所、右から生まれた順で並ぶ。泰二の右隣りの墓所は、母の優子の父の俣野景明(5-1-16-8)の墓所。保野景明は別名が俣野市郎右衛門と言い戊辰戦争で活躍した志士で福沢諭吉の門下でもある人物。景明の墓所の右隣りは俣野景蔵(5-1-16-9)の墓所。保野景蔵は明治生命保険の監査役を務めた人物。水上瀧太郎(阿部章蔵)の妻は俣野景蔵の娘(長女)の都で、景蔵の二女の富美(次女)は阿部英児(5-1-16-3)に嫁いでいる。水上瀧太郎の長男で甥にあたるのが歌舞伎研究家・演劇評論家の阿部優蔵(5-1-16-6)。俣野景蔵は俣野景敏(谷中霊園)の三男であり、兄で次男は教育者の俣野時中(8-1-9)。時中の子で甥は洋画家の俣野第四郎(8-1-9)。景蔵の孫の俣野夏男は波多野憲(5-1-16-9)という名で俳優。


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