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またの かげあき

俣野景明

またの かげあき

?〜 1883.8(明治16)

幕末・明治期の志士

埋葬場所: 5区 1種 16側 8番

 出羽国田川郡庄内(山形県鶴岡市)出身。庄内藩士。通称は市郎右衛門(俣野市郎右衛門景明とも)。
 1862(文久2)幕府の組織した江戸警護隊新徴組を率いて尊王攘夷運動の取り締まりにあたっていた。1869(慶応3.12)江戸薩摩藩邸焼き討ちの参謀を務める。戊辰戦争で活躍し、従七位を賜る。
 1876(M9)上京して福沢諭吉の門下生に入り、慶応義塾内に起居して門弟に漢詩を教えていた。この中には、福澤諭吉の長男の福沢一太郎、次男の福沢捨次郎(2-1-12-5)もいた。 1877西南戦争に際して、警視庁創設者の川路利良率いる新撰旅団の将校(三等大警部)として従軍し、田原坂で官軍抜刀隊として活躍する。 1879東京集治監典獄、1882宮城集治監第二代典獄として赴任、1883.8現職で病死する。彼の死について福沢諭吉は、当時アメリカに滞在していた福沢一太郎、福沢捨次郎宛の手紙の中に「本月俣野景明君、宮城において病死、驚入候なり、随分有為の人物、畢生其志を不得、可惜亦気の毒なり」と悼んでいる。
 1877年7月に娘(長女)の優子は阿部泰蔵(1-1-2-11)の後妻として嫁ぐ。泰蔵と優子の間に、八男四女(長男は先妻の子)を儲ける。4男の章蔵は後に小説家の水上滝太郎(5-1-16-6)、3女の富子(とみ)は画家で後に小泉信三(3-1-17-3)の妻である。

<庄内人名事典など>


墓所

*墓石は自然石で「従七位俣野景明之墓 / 孺人 政子之墓」と刻む。孺人(じゅじん)とは七品官僚の夫人の位をあらわす高貴な名称のこと。右側に墓誌。右手側に「真浄院妙性日達禅定尼」と刻む墓石が建つ。

*俣野景明の墓所がある「5区1種16側」は、明治生命創業者の阿部泰蔵と優子(共に1-1-2-11)の分家した息子たちの七か所の墓所が右から生まれた順で並ぶ。俣野景明の墓所の左隣りは銀行家の阿部泰二(5-1-16-7)。右隣りは俣野景蔵(5-1-16-9)の墓所。保野景蔵は明治生命保険の監査役を務めた人物。阿部泰二墓所の左隣りは作家の水上瀧太郎(阿部章蔵)の墓所で、水上瀧太郎妻は俣野景蔵の娘(長女)の都で、景蔵の二女の富美(次女)は阿部英児(5-1-16-3)に嫁いでいる。水上瀧太郎の長男で孫は歌舞伎研究家・演劇評論家の阿部優蔵(5-1-16-6)。俣野景蔵は俣野景敏(谷中霊園)の三男であり、兄で次男は教育者の俣野時中(8-1-9)。時中の子は洋画家の俣野第四郎(8-1-9)。景蔵の孫の俣野夏男は波多野憲(5-1-16-9)という名で俳優。俣野景蔵の右隣りは会計学者の吉田良三(5-1-16-10)の墓所。その右隣り(右端)は新墓所区画で数基の墓石が建ち並ぶ。一番右端は日和佐小学校(徳島県海部郡美波町)校歌作曲者の谷啓輔墓所。なお、阿部一族の詳細の墓所情報は水上瀧太郎の頁へ。

*山形県鶴岡市の金浄寺から改葬。


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