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おさない かおる

小山内 薫

おさない かおる

1881.7.26(明治14)〜 1928.12.25(昭和3)

明治・大正期の劇作家、演出家

埋葬場所: 5区 1種 1側 37番
青山霊園1イ1-35

 東大在学中から詩・小説・戯曲を書き、劇の翻案や演出をする。 詩人としては1906(M39)散文詩集「夢見草」、詩集「小野のわかれ」があり、小説家としては初期の短篇をへて13(T2)自伝的長篇小説「大川端」で才能を示した。 09〈自由劇場〉を創立、イプセンの作品を上演して近代日本の演劇史上に親生面を開いた。24土方与志と〈築地小劇場〉をおこし、演出・俳優養成などにあり、新劇発展のもとをきずいた。 25ラジオドラマ研究会創立。戯曲の翻訳・翻案も多く、劇評家・演出家としての業績も大きく、また20松竹キネマに入り研究所を作るなど映画界にも足跡を残した。

<コンサイス日本人名事典>


*「小山内薫之墓」書は市川左団次


※2019年、時代が令和となってから、多くの方々より小山内家の墓所がなくなった旨の連絡を頂戴しました。そんな折、掃苔をご趣味とされている山口尚夫様より、青山霊園の岡田三郎助の墓をお参りしたところ、敷地内に小山内家の墓が併設され改修された刻みもあることが判明されました。青山霊園の小山内家の写真もご提供していただきましたので、この場にて掲載しご報告いたします。なお「歴史が眠る多磨霊園」は故人を通して歴史を学ぶコンセプトであるため、小山内薫と小山内建の両名のページは残します。


【青山霊園に改葬された小山内家墓所】
 小山内家の代々の墓石は多磨霊園 5区1種1側37番にあり、小山内建、妻の錞、次男嫡男の小山内薫らの墓石が建之されていた。
 小山内家が改葬された墓所は「青山霊園1イ1-35」。ここの墓所は洋画家の岡田三郎助(1869.1.22-1939.9.23)の墓所内である。岡田三郎助の妻は小山内建の末娘であり、小山内薫の妹の八千代で、岡田八千代(1883.12.3-1962.2.10)として小説家として活躍した。岡田三郎助は肥前佐賀藩の名家であった石尾家に生まれ、後に岡田家の養子となった。三郎助と八千代は子を持たなかったため、青山霊園の墓所には「岡田三郎助墓 / 妻 八千代 共に眠る」の墓石のみ建ち、小山内家が継承していたと思われる(都営霊園は継承者が毎年管理料を納めるため)。
 小山内家は小山内薫が1928年に47歳の若さで没し、長男の翻訳家の小山内徹が継承。小山内徹が1974年に亡くなり、徹の妻の淳子が2018(平成30)年に亡くなったことで、娘の美千絵が継承者となった。美千絵の夫は小説家の立松和平(本名は横松和夫:1947.12.15-2010.2.8)である。2010(平成22)年に立松和平が亡くなった際に、岡田三郎助・八千代の青山霊園の墓所を、美千絵の母の淳子から譲り受け、同地に「流れる水は 先を 争わず」と前面に刻む洋型を建之した。この墓石の裏面は墓誌となっており「筆名 立松和平」の刻みがある。
 母の淳子が亡くなり、多磨霊園の小山内家墓所も継承することになった美千絵が、青山霊園に全てを改葬しまとめた。青山霊園に新しく建之された「小山内家之墓」の左面には「令和元年五月 東京都多磨霊園より改修 横松美千繪 建之」と刻む。墓石の裏面は墓誌となっており、刻みは右から小山内登免(薫の妻・S52.3.28没)、薫、建、秀三(M8.10.3没)、錞、貞子、小栗喬(小栗は錞の家系・S23.4.20没)、小山内徹(S49.5.23没)、淳子(H30.12.3没)。
 なお、立松和平と美千絵の子は、長男は文筆家の横松心平(林心平)、長女はイラストレーター・絵本画家の桃子(山中桃子)。桃子の夫は俳優の山中聡である。


墓所 全景 墓所 小山内家の墓 墓誌 側面 左

<山口尚夫様より提供>


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