メイン » » » 正田貞一郎
しょうだ ていいちろう

正田貞一郎

しょうだ ていいちろう

1870.2.28(明治3)〜 1961.11.9(昭和36)

大正・昭和期の実業家(日清製粉)

埋葬場所: 15区 1種 1側 23番

 相模(神奈川県横浜市)出身。正田家は上州館林にて代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を営んでいた富商であり、名字帯刀を許されていた家柄であった。 祖父は米殻商を辞め醤油醸造業を開業した正田文右衛門(3代目)。正田作次郎・幸の長男として生まれる。 父の作次郎は横浜に出て外国米の輸入商をしていたが、貞一郎が生まれた翌年に風邪がもとで急逝したため、母とともに郷里の群馬県館林に戻り、祖父の3代目文右衛門の下で育つ。
 1891(M24)東京商業学校(一橋大)を卒業。家業の醤油醸造業に携わる。1897館林実業談話会を設立。同年正田文右衛門(5代目)の長女のきぬと結婚。 館林は水車製粉が盛んな土地であったが、小麦粉の輸入が増え、更に伝統的な水車製粉による国産粉は機械製粉の輸入粉(メリケン粉)に品質面で劣っていた。 この状況に貞一郎は「輸入粉の増大に手をこまねいて傍観していることはできない、機械製粉すれば輸入粉に負けないはずだ」と、近代的な機械製粉事業を興すことを決意。 1900館林製粉(株)を創立し、専務取締役に就任した。'01館林製粉会社臨時総会を開き、役員を改選し初代 根津嘉一郎(15-1-2-10)、浅田正文、茂木啓三郎など財界に名が通った人物を役員とし、根津が初代取締役社長に就任した。
 '07館林製粉は不況で経営不振に陥っていた日清製粉を合併し、地方色の濃い館林製粉を改称し、新たな「日清製粉」を発足させ専務取締役に就任。 '10宇都宮の大日本製粉(株)を合併して、一躍、国内第2位の製粉会社となった。さらに上毛製粉、両毛製粉、讃岐製粉、九州製粉などを次々に合併。 工場も名古屋、水戸、岡山、神戸と新設していった。明治時代において、積極的なM&Aを行った。貞一郎は『挑戦を恐れない「変革」という哲学』と言う言葉を残している。
 '24(T13)同社取締役社長、'36(S11)同社取締役会長となった(〜'47)。この間、'29アメリカ・カナダの製粉業を視察。また、多くの会社も設立している。 '29オリエンタル酵母工業株式会社創立、'31日本栄養食料株式会社創立、'36日清製糸株式会社創立、朝鮮製粉株式会社創立、'40中外興業株式会社創立、'41財団法人農産化学研究会創立、'55太平食品株式会社創立した。
 '42根津との絡みもあり、東武鉄道株式会社取締役会長に就任。'43社団法人如水会理事長に就任。'46貴族院議員に勅撰される。 '49日清製粉相談役に就任、同年、カトリック関口教会で洗礼を受けた。'56藍綬褒章受章。'59孫の美智子が明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)と結婚。 内宴に出席。翌年誕生した浩宮徳仁親王(皇太子)は曾孫にあたる。享年91歳。 葬儀は東京四谷聖イグナチオ教会で日清製粉会社社葬として執行された。正5位 勲3等に叙せられ、旭日中綬章を授けられる。 群馬県館林市名誉市民。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


*妻は正田醤油会長の正田文右衛門(5代目)の長女のきぬ。その間に四男五女。長女はる、長男は明一郎(一橋大学生の時に早死 同墓)。二男が数学者の建次郎(同墓)、その息子が法学者の彬(同墓)。二女の勅子は物理化学者の水島三一郎(11-1-24)に嫁いだ。三男の英三郎は日清製粉を継ぎ、その娘が上皇后美智子、息子は日清製粉グループ本社会長の修。三女の祐子は日魯漁業監査役などを務めた実業家の脇村禮次郎に嫁ぐ。四男の順四郎は日本農産物工業社長を務めた。四女は千鶴子。五男の篤五郎は理学博士で東京大学教授。五女は和子。

*上皇后美智子の父である正田英三郎の墓は鎌倉霊園(12区15側)

第二資料館 馬車

*群馬県館林市の東に城沼を望み、旧館林城本丸跡を南に接するところに、館林市第二資料館があり、敷地内には洋風建築の「旧上毛モスリン事務所」や「田山花袋旧居」などが建つ。「旧上毛モスリン事務所」の室内二階には日清製粉の前身の舘林製粉創立者で舘林市の名誉市民第1号に選ばれた正田貞一郎の紹介と伴に使用していた馬車が展示されている。



第215回 今上天皇の曽祖父 上皇后美智子の祖父
日清製粉社長 正田貞一郎 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。