甲斐国山梨郡正徳寺村(山梨県山梨市)出身。雑穀商や質屋業も営む豪商の家に生まれる。20歳の時に上京し、漢学者の馬杉雲外の門下に入る。その後、郷里山梨に戻り郡会議員・県会議員をつとめ、共愛社、山梨同志会などをつくった。1891(M24)仲間たちと鉄道期成同盟会を結成し、中央本線の施設運動を行う。1904 衆議院議員に当選し、憲政会に属し以降4期つとめた。
東武鉄道との関りに関しては、'05(M38)780株を取得したことから始まる。一説によると、'02年に160株、'05年に1000株、'09年下期の増資時に2万株とし、株式総数に占める割合を18.9%へ高めたという説もある。とはいえ、これは当時所有していた他の鉄道会社の持ち株の割合に比べると少なく、当初は経営への参加は行っていなかった。しかし、赤字続きであった東武鉄道からの要請もあり、経営に参加することになる。嘉一郎はまず路線延長をさせた。'03年に川俣まで、'07年には足利まで伸ばし営業収入の増大をもたらした。また東上鉄道との対等合併を推進するなど手腕を発揮した。
根津嘉一郎は投資家として行き詰った企業を多く買収し、再建を図ったことから「人の中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」と称された。資本関係を持った鉄道会社は、南海鉄道、京浜地下鉄道、南朝鮮鉄道など25社に及び、全国の鉄道の取締役に就いている。他にも、正田貞一郎(15-1-1-23)が創業した館林製粉の初代社長、その後社名を変えた日清製粉、帝国石油や帝国火災保険を設立に参画し初代社長など、数多くの会社において名誉社長などに就任している。'29(S4)には徳富蘇峰(6-1-8-13)の「国民新聞」の社長も引き受けた。東京商工会議所顧問もつとめ、この間、'26末より貴族院議員に勅選され研究会に属し、亡くなるまで在任した。
「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手掛け、'22(T11)旧制武蔵高等学校(武蔵大学、武蔵高校)を創立した。また根津化学研究所の創立など学術・文化事業の方面でも名を知られる。 茶人としての顔も持ち、「青山」と号して茶道をたのしみ、また多くの茶道具や古美術の蒐集をした古美術愛好家としても知られた。享年79歳。
没後、遺族に莫大な相続税が課せられるところ、当時の東京財務局長の池田隼人が特例で美術館への寄贈名目として免除。嘉一郎の蒐集したコレクションは東京青山に根津美術館が設立され展示されている。このようないきさつもあり、根津家は政治家に転身した池田隼人の支援者となり、後に池田内閣誕生へとつながっていくことになる。
なお、根津嘉一郎が亡くなった後は、長男・藤太郎が二代目嘉一郎を名乗り、東武鉄道の経営を引き継いでいる。
<コンサイス日本人名事典> <近代日本の創業者100人など>
第221回 根津財閥 初代 根津嘉一郎 お墓ツアー 萬霊供養大石灯篭
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