鹿児島城下出身。代々薩摩藩の上級武士の家柄。山口彦七(同墓)の長男。1876.12(M18)家督を相続する(4代目)。
16歳の時に農商務省に勤める義兄の奥清輔を頼りに上京。1891東京職工学校(東京高等工業学校)機械科を卒業。義兄の親友であった当時初代特許局長を務めていた高橋是清(8-1-2-16)の世話もあり、農商務省に入省。特許局審査官補に着任。機械の審査を通じて、欧米先進国における機械工業の水準の高さを痛感した。同じ頃、安田財閥の安田善次郎は製釘事業が将来性のある有望な事業であると確信し、その国産化を進めようと検討していた。安田が高橋に海外製釘事業の現状視察する若手を依頼した際に、武彦が推薦された。武彦は特許局を辞して、安田銀行に技師として入り、1896(M29)27歳の時にアメリカに遊学。オハイオ州クリーブランドで製釘機の試運転を視察し、その優秀な性能に着目して製釘機100台余を注文した。しかし、その機械を操作できる日本人がいないため、自らが技術習得のためクリーブランドに1年間留まり修得した。その後、ヨーロッパに渡り機械視察を行い、1897帰国。
帰国後、日本初の製釘事業会社の深川製釘所が設立され、機械技師として、1898わが国初の丸釘の完成に携わる。しかし、しだいに原材料の輸入が難しくなり、1902工場閉鎖を余儀なくされた。閉鎖に伴い、'03 安田善次郎の斡旋で北海道鉄道株式会社に入社。志半ばでの北海道への転職で、技術者に留まるのではなく、経営者になりたいという意志を強く持つようになる。
'06.12.1(M39)東京市京橋に「山武商會」を創業。欧米機械工具直輸入の機械商・貿易商を営む。日露戦争を契機として軍事産業と民間産業との結びつきが促進され、海軍部内に機械の売り込み、民間にも販路を広げる。日本製鋼所、豊田自動織機製作所、川崎造船所、日立製作所、その他、関西の各鉄工所から九州地方の炭鉱や各工場など得意先として事業を拡大していった。
'09 酸素によって鉄を溶接するという新技術をいち早く知り、わが国初めてドイツから酸素溶接機を輸入し、横須賀海軍工廠に第1号機を納入。その後、販売権を獲得。更には国内での酸素製造事業を企図し、'10.10.30 日本酸素合資会社を設立。同年「ベルリン・シュッカルト・シュッテ社日本総代理店」になる。武彦は大正時代に入ると、東京商業会議所の議員に立候補し選出されている。
山武商會の受注の増加に伴い、'11大阪出張所を設け、順次、名古屋、福岡など全国に出張所を設置。'14.2.20(T3)精密加工を行う日本精工合資会社を設立。輸入機械あるいは海軍工廠との取引の関係から、極めて早い時期に軸受に接する機会に恵まれたため、軸受工業の将来性を洞察し、国産化を考えた。日本精工設立後まもなく、実際に軸受詩作に取り掛かり、'16頃、本格的に工業化に乗り出した。第一次世界大戦の影響で好況期にあり、軍需部品の需要も旺盛を極めていたため、合資会社の資産及び営業権一切を新会社に譲渡することとし、'16.11.8 新たに日本精工株式会社を発足した。加えて、日本酸素合資会社も工業用酸素のみならず医療用酸素の需要も急激に伸びたため、'18.7.19(T7)株式会社に改組した。
ヨーロッパ、特にドイツからの機械輸入が主であった山武商會は国産化にも取り掛かりつつも、新興工業国であるアメリカからの輸入の活路も模索していた。'17.10 渡米。ブラウン社のR.ブラウン社長を訪ね、計器類を同社から直接輸入する承諾を得、'20日本総代理権を獲得。しかし、恐慌に見舞われ需要は極端に冷え込み、到着した輸入機械は値下げしても売れず、山武商會の経営が悪化した。深刻な不況が続く中、'23.9.1 関東大震災が起こり、輸入機械が横浜ふ頭で被災、大きな損害をこうむった。さらに、'27(S2)金融恐慌が起こり、'29.10.24 ニューヨーク株式市場の大暴落を契機に、未曾有の恐慌が世界規模で起こり、創業以来の最大の経営の難局に直面した。
将来必ず事業を発展させるという思いから、'28 丸の内に最新鋭の設備を誇り新築された八重洲ビルに、あえてこの苦しい時期だからこそと、本社移転をする。以後、戦後一時GHQに接収された時期を除き、50年間にわたって山武商会の本社所在地となる。'32.7.1 安田銀行の特別の援助によって山武商会株式会社に改組し再出発。'33.4 買収した大森製作所の敷地内に計器組み立て工場「山武商会計器製作所」を設立。以降、山武商会は工作機械輸入商から工作機械および計器の製造販売を行うメーカーへと転身した。
当時は山武商会の事業は工作機械が主力で、計器の比重は小さかった。ブラウン社で計器技術を研修したT.H.ファクトマン(ドイツ系二世)から、工作機械と計器の事業を分離し、計器専業の別会社を設立提案がなされた。'39.4.5 山武商会および日本側出資者とファクトマン出資による日本ブラウン計器株式会社を設立し、ファクトマンが代表となる。ところが、国内の戦時色が強まる中、外国人が会社の代表者であることは好ましくないと考えられ、'40ファクトマンは辞任し、同時に本人所有の株式を山武商会側の取締役に分割して名義を変更。'41.11.14 計器関連の役員および出資者が全員日本人となり、山武計器株式会社と商号を変更した。
戦時体制下において商事会社は生産にまったく寄与しないとみられ、山武商会の名前も時局にそぐわないとされたため、'42.4.1 社名を「山武工業株式会社」に変更。さらに商事部門を分離独立させ株式会社山武商会を設立。同.11.21 山武工業は山武計器を吸収合併し、社長に山口武彦、副社長に息子の山口利彦(同墓)が就任。
終戦直後、'45.10 軍需会社の社長として戦争責任に問われる可能性を回避するため、武彦は相談役に退き、副社長の利彦が社長に就任。戦争復興に伴い計器の需要も増大することを予見し、山武工業株式会社は工作機械事業を廃止し、工業計器の生産に一本化で進む方針とした。ブラウン社との提携復活を急務としていたが、日米間の民間ベースの文通は認められていなかったため、GHQとの折衝にあたる。戦時中も特許料をブラウン社名義で銀行に積み立てていたことがGHQの印象を良くし、ブラウン社との文通の許可を得た。
当時、山武工業株式会社は企業再建整備法に基づく第2会社山武計器の設立準備を進めていたが、'49.1.1 アメリカでブラウン社がハネウェル社に吸収合併された。'49.8.22 第2会社「山武計器株式会社」設立、社長は利彦が就任。ハネウェル社から提携を認める公的な意思表示があったが、具体的な措置は講和条約締結('52)以降からとなる。サンフランシスコ講和条約締結後、すぐに利彦は渡米しハネウェル社と工業計器生産のための技術提携交渉を行った。空調制御機器、マイクロスイッチの販売契約を包含することが決定。'56.12 創業50周年を迎えるのを機会に、ハネウェル社との協力関係を深めるため、同.7.1 山武ハネウェル計器株式会社と名称変更。'59マイクロスイッチ(MS)、工業計器(BI)、調節弁(CV)、制御機器(TC)の4事業部制をスタート。また外貨割り当て制限から円滑な輸入が困難となったことで、MS、TCの国産化をしていく。高度経済成長も伴い事業は拡大し、'58.8 株式の店頭公開、'61.10 東京証券市場第2部上場。
'62.7.11 武彦は鎌倉の自邸で逝去。享年93歳。'61藍綬褒章。没後、従5位 勲4等追贈。日本の機械産業の発展に大きく貢献し、後継者の利彦が戦後混乱期を乗り切り、ハネウェル社との提携のもと会社を大きく飛躍させた姿を見届けて天寿を全うした。同.7.17 青山斎場にて葬儀が執り行われた。
武彦亡き後の時期は、経済を是正するため金融引き締め、設備投資抑制などの景気調整策が採られ、日本経済は景気後退期に入り次第に不況感が浸透し経営危機に陥りそうになったが、会社は立て直し、'69 第1部上場。この間、'63 工業計器部門を独立させ山和計装株式会社を設立、'65 山武メンテナンス株式会社と変更。'63 計装工事部門を独立させ山武計装株式会社を設立。'66 創業60周年を記念日と期して「山武ハネウエル株式会社」と社名を変更。また、山武プラスチック株式会社設立、'70山武プレシジョン株式会社に変更。'69 山武オプチックス株式会社設立、'70 山武機材株式会社と変更し、後に山武プレシジョンと統合して山武コントロールプロダクト株式会社へと発展させるなど、多くの連結子会社を誕生させた。終戦後よりけん引してきた山口利彦は、'69.11.28 代表取締役会長となる。後任の社長は松岡正雄が就任した。
山口武彦が創業した三社、「山武商会」は現在「アズビル」(1906創業)、「日本酸素」は現在「大陽日酸」(1910創業)、そして「日本精工」(1914創業)。三社とも100年の時を超え、東証一部上場企業となり現在に至る。
<山武グループ社史:azbil『「設計と制御」へのこだわり』第1章、第2章> <山武小史> <人事興信録など>
*墓石は和型「山口家之墓」。左側に墓誌がある。墓誌には俗名、歿年月日、行年が刻む。初代 山口金左衛門 藤原利雅の夫妻から刻みが始まる。二代 山口金左衛門 藤原利雅、三代 山口彦七 藤原利方。彦七とハマの長男が四代 山口武彦。武彦には「従五位勲四等に追叙さられ旭日小授章を授與さる」と刻む。武彦の妻は鈴子(1878-1933:第十五銀行支配人を務めた高木貞作の長女)。武彦の長男の貞彦は2歳で天昇。次男の山口利彦(1901-1984.9.2)が五代目となり、会社事業を引き継ぐ。三男の利高は25歳で天昇。四男は利國は35歳で天昇。利彦には「正五位勲三等に追叙さられ瑞寶章を授與さる」と刻む。利彦の妻は千代(1912-2009.8.30没 行年97)。六代目は利彦の長男の山口眞利(2009.11.9没 行年66)。
*彦七とハマの長女の満寿は奥青輔に嫁ぎ、牧野乾輔の二男の奥健蔵を養子と引き取る。奥健蔵は日本塩業の近代化路線を敷いた人物。
*利彦の妻は千代。千代は帝国海事協会理事長を務めた藤島範平の二女。千代の兄は登山家・銀行家の藤島敏男で、その長男が作家の藤島泰輔。藤島泰輔の妻はジャニーズ事務所のメリー喜多川。千代の弟の藤島良平は山武ハネウエルの監査役になっている。利彦と千代の長女の万里子は福澤雄吉に嫁いだ。雄吉の曽祖父は福澤諭吉、祖父は福澤捨次郎(2-1-12-5)、父は捨次郎の二男の福澤堅次、堅次・綾子夫妻の長男。
第260回 山武商會 日本酸素 日本精工 創業者 山口武彦 お墓ツアー 商社からメーカーへ転身
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