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なかむら ふせつ

中村不折

なかむら ふせつ

1866.8.19(慶応2.7.10)〜 1943.6.6(昭和18)

明治・大正・昭和期の洋画家、書家

埋葬場所: 3区 1種 15側 10番(中邨家)

 江戸京橋東湊町(東京都中央区)出身。東湊町の書役や名主の補佐役を勤めていた中村源蔵の長男。幼名は太郎。別号を環山・孔固亭。'28(S3)より雅号の不折を本名に改名。
 明治維新で父は職を逸し、混乱を避けるため一家は父親の郷里である長野県高遠(伊那市)に戻る。5歳からの幼少期を長野で過ごす。小学校卒業後、上諏訪町の呉服店や菓子屋に勤めるも、商人が肌に合わず学問や芸術方面を希望。勉強したい一心で朝早く起き、仕事を早く済ませて時間をつくり、真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書、漢籍を北原安定に学ぶ。
 1884(M17)19歳の時に西高遠学校受業生の代用教員に採用される。21歳の時に伊那郡学校の助教となる。翌年より飯田小学校で図画・数学の教師となった。この時の教え子に後に日本画家となる菱田春草や社会学者・評論家・政治家の樋口龍峡(6-1-12)らがいた。この間、1885(M18)長野県師範学校内で開かれた画家の河野次郎(13-1-27)の夏期講習会に参加し鉛筆画や水彩画を教わる。これを機に河野次郎と親交を深め、河野から上京を促されたことで東京を意識し始めた。
 1887.4 教師時代で貯めたお金を持ち絵の勉強をするため上京。金銭的に余裕がなく、伝手を頼りに、当時、特許局局長をしていた高橋是清(8-1-2-16)の邸宅の空き部屋(三畳一間)に住み込みをさせてもらう。はじめ南画を志していたが、十一字会研究所から発展解消した画塾「不同舎」に入門。小山正太郎に師事し、浅井忠らに洋画を学ぶ。小山は弟子たちの個性を尊重した指導理念を持ち、人によって指導の仕方を変え、自らの作品を弟子たちに影響を受けさせないように見せないようにしていたという。後輩には萩原守衛(碌山)、青木繁、満谷国四郎(21-2-19-12)、森田恒友(13-1-37-2)らがいる。
 1894正岡子規に出会い、新聞「日本」の記者となり、新聞「小日本」の挿絵を担当した。同紙に俳句が掲載された時に『不折』の名を号として初めて使用した。1895日清戦争の時に正岡子規とともに記者として従軍し中国へ赴いた。約半年かけて中国、朝鮮半島を巡遊し、「龍門二十品」や「淳化閣帖」などの拓本をはじめ、漢字成立の解明に寄与しうる考古資料を目にし影響を得る。甲骨・青銅器・瓦当・仏像・経巻・文房具などをたくさん日本に持ち帰った。画家だった中村が書道研究に没頭するきっかけとなる。書の古典から学び、北派の書を根底とした独自の大胆で斬新な書風を展開。後に書道界にセンセーショナルを巻き起こすことになる『龍眠帖』(M41)につながることになる。
 1900第10回明治美術展覧会に『淡煙』『紅葉村』を出品し、『紅葉村』はパリ万国博覧会で褒賞を受賞した。志高く、1901渡仏。ラファエル・コランに師事し、アカデミー・ジュリアン画塾にてジャン=ポール・ローランスに絵の指導を受けた。画塾のコンクールに入賞するなど力をつけ、オーギュスト・ロダンを訪問した際には署名入りのデッサンを貰う。
 '05帰国。太平洋画会に属し、主に歴史画の分野で活躍し東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。この頃、フランスで共にしていた不同舎の後輩の萩原守衛の縁で中村屋の相馬愛蔵や黒光(共に8-1-5-3)とも知り合い、中村屋が使用している看板文字(ロゴ)を揮毫。これは現在でも使用されている。
 '07『建国剏業』(けんこくそうぎょう)は上古の神話を念頭に描かれた力作で、東京府主催の勧業博覧会に出品し1等金牌を受賞したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちを裸で描いたため、「皇祖の事跡を蛮族の群の如くに描いた」と攻撃され、当時文部大臣であった九鬼隆一は「不敬である」と激怒した。中村は「仮想の集団を描きたるもの」と称したが、日露戦争後の国威発揚ムードのなか、西洋の歴史画が裸体画をベースとして描いた中村の工夫である和魂洋才の奇天烈は当時の日本人の目には馴染まなかった。この作品は関東大震災により横浜で焼失した。
 '09日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となり『龍眠帖』を刊行し書道界に衝撃を与える。前田黙鳳らと健筆会を結成。'13(T2)河東碧梧桐らと『龍眠会』を結成。『蘭亭序』刊行。'15東京大正博覧会に『廓然無聖』他を出品。その後、『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。'17『不折山人丙辰溌墨』第1集・第2集を刊行。第10回文展に『黎明』『たそがれ』を出品した。'30(S5)太平洋美術学校を開校し初代校長に就任。美術協会審査員などを歴任し、後に帝国美術院会員に任命された。
 書に深い理解と造詣を示し、自らも六朝楷書に傾倒。作家との交流も多く、森鴎外や夏目漱石とも親しく、挿絵や題字を手掛けることも多い。代表なところに、島崎藤村の詩集「若菜集」「一葉舟」の挿絵、夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の挿絵、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の装幀・挿絵など多数。新宿中村屋の看板文字の人気から、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「信州味噌」、「筆匠平安堂」などがある。  生前に親交があった人たちからの依頼で、多くの墓碑の揮毫も頼まれた。その先駆けが、'22.7.9森鴎外が没した際に「書ハ中村不折ニ依託シ、宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ」」との遺言。三鷹の禅林寺の「森林太郎墓」の墓碑銘を揮毫したことが始まり。以降、長野県穂高にある萩原守衛(碌山)、水戸の祇園寺の洋画家の中村彝、普門院の伊藤左千夫、多磨霊園でも末永純一郎(6-1-1)らの墓碑の書のほか、碑石や像銘の書も多数手掛けた。
 身なりなど全く構わないことでも有名で、質素な生活を続け、稼いだお金は書道に関する資料収集に費やした。それにより、特に中国の書の収集家としても知られ、唐代の書家である顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「顔真卿自書建中告身帖」などを収集。これら収集したものを、'36.11 書道博物館の設立につながった。婦人と散歩中に脳溢血で倒れ逝去。享年76歳。

<コンサイス日本人名事典>
<日本経済新聞「滅失絵画十選」 中ザワ ヒデキ>
<新宿中村屋 創業者ゆかりの人々など>


墓所 碑

*正面和型で旧字で「中邨家之墓」と中村不折自筆で刻む。裏面「大正十五年八月 中村不折 建之」。左右面は墓誌となっており、左面墓誌は早死した子どもや両親、右面は中村不折以降代々、裏面に3代目館長で台東区に収蔵品を建物ごと寄贈した中村初子が刻む。中村不折の戒名は懿鑠院殿釋不折居士。妻は いと(旧姓は堀場、1897結婚)。墓所左側に「中村不折君墓碑銘」と題した碑が建つ。その左隣に十字架を刻み「戸塚政美之墓」の墓標が建つ。墓所右側に和型「赤羽家之墓」、裏面「平成二十九年十月吉日 赤羽正司 泰子 建之」が建つ。

*書道博物館(東京都台東区根岸2-10-4)は初代館長の中村不折没後も遺族の手で維持・保存されてきた。1943(S18)不折の子息の中村丙午郎(同墓)が2代目館長となり、1990.10.21(H2)中村丙午郎が亡くなった後は、3代目館長に中村初子が継いだ。'95.12(H7)初子は書道博物館を閉館し台東区に寄贈。収蔵品には重要文化財11件(12点)、重要美術品5件を含む書道史研究上重要な資料約16000点。2000.4(H12) 台東区立書道博物館として再開館した。なお、寄贈後に本館とは別に同地に中村不折記念館も建てられ現在に至る。



第151回 書は芸術だ 龍眠帖 中村不折 お墓ツアー


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