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そうま あいぞう

相馬愛蔵

そうま あいぞう

1870.11.8(明治3.10.15)〜 1954.2.14(昭和29)

明治・大正期の実業家(養蚕事業家、新宿中村屋)

埋葬場所: 8区 1種 5側 3番

 長野県南安曇郡東穂高村出身。相馬安兵衛、ちか の三男として生まれた。2歳で父を、7歳で母を失い、15歳離れた兄の安兵衛(代々当主は安兵衛の名を継承する)に育てられる。
 松本中学時代の先輩に社会運動家として活動する木下尚江がおり影響を受け、木下が進学した東京専門学校に、1886(M19)入学。ここでキリスト教に導かれ市ヶ谷牛込教会で洗礼を受ける。
 卒業後、キリスト教の禁酒運動に従い北海道に渡り、一年間滞在。北海道炭鉱でアルバイトをして得た日給30銭のお金は生涯他人から給料を支給された唯一の経験となる。
 1891 帰郷し、養蚕法の改良などを試む研究に打ち込む傍ら、郷里の青年を集めて禁酒運動を起こし、その会長としてキリスト教の布教を行った。蚕種製造がうまくいき『蚕種製造論』『蚕種飼育法』の二著を刊行。
 孤児院基金募集のため仙台へ出掛け、仙台藩士の娘のクリスチャンの星良(相馬黒光:同墓)と知り合い、1897 結婚。結婚式を牛込の日本基督教会で挙げる。愛蔵の郷里穂高村の洋館に住む。洋風の応接間には地元の青年たちが集まるサロンとなる。ここに出入りしていた荻原守衛は後に芸術家となる。この間、長女の俊子(1-1-6-12)、長男の安雄(同墓)が誕生。
 しかし、妻の良は慣れない信州の寒村が肌に合わず体調を崩しノイローゼ気味となったこともあり、相馬夫妻は上京することを決意。1901 一家で上京し、愛蔵は人に雇われたくない思いから、本郷赤門前のパン屋「中村屋」を金七百円で職人・店員ごと譲りうけて開業。お金は借金をして用立てたため、愛蔵は郷里の蚕種製造をしながら、パン屋を体調が回復した妻に任せる二足の草鞋を行う。
 パン屋は東京帝国大学の学生たちに人気を得て店は順調であった。しかし、近所の食料品店が中村屋をしのいで繁盛していたため、調査をしていたところ店頭の商品のほとんどを仕入原価で売っており、洋酒で利益をあげていたことを知る。そこで中村屋も洋酒を扱うことにし、得意先に案内を出した翌日、キリスト教の師匠である内村鑑三(8-1-16-29)が店に来て、「商売を選んだあなたたち、中村屋を陰ながら応援してきたが、その中村屋が悪魔の使者ともいうべき酒を売るとは・・・。私はこれからあなたたちと交際は出来なりますが」と静かに諭すように宣言される。禁酒運動を行っていた愛蔵にとっては身が凍る思いであったと回想しており酒を売るのは辞めている。
 当時は日露戦争の軍需ブームもあり、軍用ビスケットの製造に有力パン屋はしのぎを削っていた。愛蔵のところにも誘いがあったが頑なに拒絶した。軍用パンで莫大な利益を得るパン屋もあったが、ブームが過ぎると拡大投資が仇となることを見抜いており、実際、ブームが過ぎた後に多くのパン屋が倒産している。その代わり、アイデアを駆使して創作パンを開発した。'04 日本で初めてクリームパン、クリームワッフルを発明し販売。これはシュークリームを始めて食べた際にとても美味しく、人気商品のジャムパンに、ジャムの代わりにクリームを入れたところ人気を博した。
 また桜餅のヒットもアイデアによるものである。役場から小学校生徒のため赤飯一石五斗の注文があった(米一石=150kg:米1合の1,000倍)。早速、もち米を水に浸して準備を進めた。翌日、役場から注文の取り消しの連絡があった。もち米の始末に困っていたところ、新しい創作を試みようと、もち米を少しずつつぶして桜色をつけ、飴を入れて桜の葉に包み「新菓葉桜餅」として店頭に出してみた。すると季節も葉桜の時期でもありマッチして、瞬く間に売り切れ、次の日も売り切れ、二日で一石五斗のもち米を用い尽くしたという。よく売れるため、引き続き製造をし、一ヶ月で二十石ものもち米を使用した逸話がある。
 店員が箱車を引いてパンを売るのも盛況で、箱車による外売りに大きな可能性を見出す。特に中央線沿線の売れ行きが良いことから、市電の終点でもある「新宿」に将来性を見出し、'07.12.15 新宿駅前に支店を開く。支店の開店一日目の売上が、赤門本店の売上を超える成績を示した。そこで新宿で勝負をかける機運が高ぶり、'09 新宿駅前(現在地)に土地二百六十坪と建物四棟を3,800円で買入れ、本店だけでなく住居も移転した。
 ちょうどその頃、十年近い欧米放浪の旅をおえ帰国した同郷の芸術家の萩原守衛が新宿中村屋に居つくことになったのを機に、店の裏にアトリエをつくる。自ずとその場に若手芸術家たちが集うようになり、郷里でも行っていたサロンになる。その後、中村彝、中原悌二郎、柳敬助、戸張狐雁、鶴田吾郎、斎藤与里ら出入盛んとなっていく。なお、萩原守衛は二年後、中村屋の一室で大量の吐血をもって亡くなっている。作品蒐集や芸術コレクターとしてパトロンとなる企業家が多い時代に、相馬夫妻はそのいずれでもなく、芸術家を愛し支援した人物と評価されている。
 '15.6(T4)インド独立の志士のラス・ビハリ・ボース(1-1-6-12)が日本に亡命した際、頭山満と協力して保護、新宿中村屋の奥のアトリエにかくまった。中村屋には多くの在京外国人がパンを買いに来ていたため、警察の探索の目をくらませることができ、四か月中村屋でかくまった後、場所を移した後も長女の俊子が連絡役となり、ついに日英同盟が破棄されるまで身の安全を保たせることができた。'18(T7)頭山満の媒酌で、日本に帰化したボースは、亡命を助けていた俊子(防須俊子:1-1-6-12)と結婚。
 '19 万歳事件の首謀者の一人の朝鮮人の林圭、亡命ロシア人のニンツア、盲目の詩人のエロシェンコが身を寄せる。'22 タゴールが来日し新宿中村屋で会見もした。中村屋サロンの芸術家たちにとっても異邦人たちに刺激を受けた作品が残る(中原悌二郎「若きカフカス人」、中村彝「エロシェンコ」、鶴田吾郎「エロシェンコ」など)。またボースから本場の純印度式カリーライス、林圭から朝鮮松の実入りカステラ、ニンツアからロシア式スープのボルシチ、エロシェンコからルパーシカやロシヤチョコレートを学び、新宿中村屋の目玉商品になっている。
 '23.9.1 関東大震災時、建物被害を免れた中村屋に多くの被災者の群が押し寄せた。そこで「地震パン」「地震饅頭」「奉仕パン」の三つの安価なパンを作り被災者に配るも、わずか一時間で売り切れたという。以降も夜通し作り二日で材料が底をつくも、焼け残った工場から原材料を確保。またパンを焼いている暇もないため、小麦粉と砂糖を原価で分け与えたという。加えて朝鮮人を保護する活動も行った。震災を契機として中村屋の売上は増していき、年間総売上二十万円を記録したため、中村屋を個人商店から株式会社に改組した。
 '26 新宿三越デパートに進出、中村屋の経営を多角化した。外で売るに当り、日本で初めて水ようかんの缶詰をつくり発売。また新たな商品開発をするにあたり、相馬夫妻が中国視察。現地にて食べた月餅や、中華饅頭は、日本人好みの味付けに改良し、人気商品とした。中華まんは当初「天下一品 支那饅頭」として発売し、これが現在の中華まんの始まりともいわれている。
 '27(S2)中村屋喫茶部を新設。'28 ヨーロッパに外遊した際、西洋人が日本に来ても着物を着ずに自分たちの服装で堂々としているのに、日本人だけ着物を脱いで似合わない洋服を着るのはおかしいと考え、常時着物で押し通したところ大歓迎された。
 '37 中村屋店員の人格向上のために研成学院を創立。'38 自伝『一商人として』を刊行。'45 空襲により本店、寄宿舎、工場などが焼失したが、'48 長男の安雄が中村屋2代目社長に就任し復興させ、売店と喫茶店の営業を本格的に再開し、'52 中村屋は復興した。'53 中村屋製品のデパート進出はじめた翌年、逝去。享年83歳。'69 朝のテレビドラマ「パンとあこがれ」(相馬夫妻伝)が放映された。

<コンサイス日本人名事典>
<一商人として>
<人物昭和史2実業の覇者(筑摩書房)井出孫六>
<中村屋の歴史など>


*墓石は自然石で正面「相馬家墓」。墓誌などはない。

*愛蔵と黒光の間に5男4女を儲ける。長女はボース夫人となった俊子。二人の子供で愛蔵からしたら孫の、長男で陸軍中尉で戦死した防須正秀、長女で著述家の樋口哲子(全員防須家:1-1-6-12)がいる。長男の安雄は新宿中村屋2代目社長であり盲導犬普及に尽力した人物である。



第229回 新宿中村屋 独自の商人道 相馬愛蔵 お墓ツアー
芸術家と異国人 中村屋サロン


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