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そうま やすお

相馬安雄

そうま やすお

1900.11(明治33)〜 1957(昭和32)

大正・昭和期の実業家(新宿中村屋)、盲導犬普及者

埋葬場所: 8区 1種 5側 3番

 長野県安曇野市穂高出身。養蚕や農業に従事していた相馬愛蔵と相馬黒光(良)(共に同墓)の長男として生まれる。 姉の俊子は後にインド独立運動の志士のラス・ビハリ・ボース(共に1-1-6-12)に嫁ぐ。二人の子息である防須正秀は甥、樋口哲は姪にあたる。父の郷里での誕生で相馬家の待望の男児ということもあり、相馬家代々の名前である安兵衛の「安」、黒光の祖父である雄記の「雄」をとって「安雄」と名づけられた。
 誕生して翌年、母の黒光が穂高の田舎暮らしに合わず健康を害し、愛蔵は一家で上京を決意、東京本郷に小さなパン屋「中村屋」を従業員ごと買収し、名前もそのまま引き継ぎ開業した。1907(M40)新宿に支店を開設し、'09新宿支店を現在地に移し本店とした。それに伴い一家も移住。
 早稲田大学卒業後、英国に渡りロンドン大学で学び、更にドイツに渡る。帰国後は、両親が経営をしていた新宿中村屋に入る。'37(S12)中村屋のマークをデザインし、中村不折(3-1-15-10)書の「中村屋」の文字とともに商標登録をした。'39中村屋の株式を公開。
 '45空襲により本店、寄宿舎、工場などが焼失したが、'48中村屋の2代目社長に就任し復興させ、売店と喫茶店の営業を本格的に再開した。'53『アジアのめざめ : 印度志士ビハリ・ボースと日本 』を母と共著。株式を東京証券市場店頭に公開。百貨店に進出。伊勢丹に直売店を出店し多店舗展開へと拡張した。'54父の愛蔵が没し、翌年'55母の黒光が亡くなり、これからという時の2年後に、'57東京証券取引所に株式上場をするなど勢いに乗っている最中、社長在任中に急逝。享年56歳。
 安雄は少年時代に闘犬に興味を持ち、ドイツ留学の時にシェパード犬の仕事ぶりに驚きを覚えたことで、シェパードの訓練にのめり込む。1928(S3)日本シェパード倶楽部(NSC)が設立されると直ちに入会、以降、中心メンバーとして熱心に活動した。
 '31満州事変直後から、NSCでは親軍路線派と保守派に分かれての内紛が発生した。シェパードを軍用犬にしようとする急進派と、安雄らは軍とは距離を置くべきだと主張し対立。急進派は脱退し、新たに帝國軍用犬協会(KV)を設立し、陸軍の加担によりKVは急速に規模を拡大して、ついにNSCもKVに吸収合併されてしまった。これにより、安雄らは新たなシェパード愛好団体である日本シェパード犬研究会(NSK)を設立。ドイツSVとの関係強化及びNSKの社団法人化を進めた。'35NSKは社団法人日本シェパード犬協会(JSV)に再編。JSV会報「シェパード」の表紙の題字をラス・ビハリ・ボースが書く。当時はKV名誉総裁に久邇宮朝融王、JSV会長に筑波藤麿侯爵が就任しており、KVとJSVの2大畜犬団体が対立していた。
 '39(S14)安雄は日本初のドイツ盲導犬の輸入事業を展開。リタ、カロル(ボド)、アルマ(アスタ)、リチルト(ルティ)の4頭がドイツから到着。盲導犬普及の為に奔走。戦時中の新宿中村屋では飼料確保に苦慮する愛犬家の為にドッグフードも販売していた。安雄が訓練したドイツ盲導犬リタは、戦盲軍人の誘導に活躍。
 '48安雄のもとに来た国産盲導犬作出を志す塩谷賢一が訪れ後押しし、これがきっかけとなり、'56塩谷の手によって戦後初となる国産盲導犬「チャンピィ」が誕生。新たな世代の盲導犬たちの活躍が始まる。翌年、安雄は永眠する。

<新宿中村屋の歴史>
<犬を愛した人々など>



第231回 新宿中村屋 2代目社長 盲導犬の普及に尽力 相馬安雄 お墓ツアー


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