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Rash Behari Bose

ボース,ラス・ビハリ

Rash Behari Bose

1886.3.15(明治19)〜 1945.1.21(昭和20)

インド独立運動家、純インドカリーライス紹介者

埋葬場所: 1区 1種 6側 12番

 インドのベンゴール出身。政府新聞の書記を務めていたビノド・ビハリ、母のブボネンショリの長男として生まれる。階級の厳重なインドでボースの家は四階級の第二なる王族階級であった。学生時代にインド兵反乱を描いた『サラット・チャンドラ』に感化を得、学業を捨てインド兵に志願。しかしベンガル人は身体特徴から兵士に向いていないと拒否され、その後も志願を続けるも叶わず、父の強制で森林研究所化学部門の実験補助員に任官。
 勤勉な官吏であり責任あるポジションを任されていたが、祖国をイギリスの圧制より救うため水面下で民族革命運動に投じる。赴任先はネパールの山岳民族のグルカ兵輸送の中心地であったため、兵士に革命思想を伝え、かつ爆弾製造の部品や薬品を密かに調達した。1912(T1)デリーに於て印度総督ハーディング卿に爆弾を投じた「総督爆殺計画」を決行したが未遂となる。だが、デリー事件の主犯がボースと判明するまでに時間がかかり、決行後もしばらく疑われず逆に警察が革命党員の行動内偵をボースに依頼するほどであった。'14ボースが主犯であることが判明し逃亡。英国政府はボースの首に一万二千ルピーの懸賞金をかけた。'15ラホールの反乱も密告により失敗に終わり、身の危険が迫る中、武器を入手するために日本に渡る決意をした。
 アジア初のノーベル文学者のタゴールが日本行きを計画していることを知り、来日の下準備をする親類だと偽り来日。'15.6.5神戸に上陸し、8日後に東京入りを果たした。翌月、中国革命家の孫文と会う。武器をインドに送るため上海に渡り、東京の同志から送られてきた多量の武器をインドに送る。だがこの船がイギリス官憲に見つかり、同時にボースの密入国が発覚。日本に戻ったボースに孫文は、アジア運動庇護者の頭山満を紹介した。
 当時の日本はイギリスと日英同盟を結んでおり、イギリスから日本で「タクール」と名乗る人物は「ラス・ビハリ・ボース」本人である。即時逮捕を求めると強い要求があり、同.11.28大隈内閣はボースに国外退去を命じた。報道各誌も「日本を退去すれば死刑に処せらる」「民衆の同情」と記事にした。退去期限の12月2日の前日の夜、官憲の尾行がついたボースを頭山満は送別会を開くと自宅に呼び、官憲の目を盗んで裏口からこっそりと逃がした。逃走には当時日本に数十台しかなかった高性能の自動車が用意されていた。ボースは官憲の尾行を振り切ることに成功。政界にも力を持っていた頭山に対して、官憲はそれ以上の捜査を行わなかった。
 頭山や内田良平(14-1-9)を介して新宿中村屋裏のアトリエにかくまうことになった。相馬愛蔵(8-1-5-3)がボースを保護したきっかけは、たまたまパンを買いに来て慣れ染みとなっていた内田の友人に、国外退去処分で追われていたボースをかくまってもいいと語ったことからという。在京の外人の出入りが多い中村屋では目をくらませやすかった。中村屋で3か月半、その後は相馬夫妻の長女で英語が堪能だった俊子が連絡役となり、隠れ家を17回も転々としながら献身的にサポートした。
 '18ボースと俊子は結婚。頭山が媒酌人をつとめた。逃亡中のことであるため隠れて行われた。同年、第一次世界大戦が終結したことを受けイギリスによるボースの追求が終わり、一家は中村屋の敷地内に新居を建て生活をする。インド本国への帰国は叶わず、'23.7 帰化。相馬家に入籍はせず、新たに「防須」家を起こした。「防須」という名は犬養毅が命名。長男の正秀、長女の哲の一男一女に恵まれた。しかし、'25.3.4 妻の俊子は26歳の若さで肺炎で没す。相馬夫妻が遺された二人の子供は手元に置き育てた。そしてボースに再婚を勧めたが、「新しい人を迎えることは私には苦痛だ。俊子に対して感じたものを、その人に感じることが出来ようとも思われないし、あなた方を置いて別の父母を持とうとは思わない。自分の体は祖国に捧げたものであって、我が命とも思っていないのに、生活の安穏のための結婚は望むところではない」と笑って答えたという。
 地盤が強く関東大震災で被害をほとんど受けなかった新宿を中心に都市開発が行われ、中村屋に喫茶店を出してもらいたいという要望が出る。'27(S2)中村屋喫茶部オープン。これに伴い、純印度式カリー発売を開始した。「中村屋で喫茶部を置くならば、純インドの上品な趣味好尚を味わってもらうために自分は是非インドのカリーを紹介したい」と、ボースは相馬夫妻に恩返しするため、当時の日本で主流であった欧米カレーとは違い、本場インドカリーを日本に紹介した。これは現在でも新宿中村屋の名物の一つであり、これにより「日本のインドカリーの父」と称される。「カレー」ではなく「カリー」という名となったのはボースがそう発音したからとされる。
 その後のボースは、A.Mナイルらと共に手を組み、インド国外における独立運動の有力者の一人としてインド独立運動に邁進。'35.11.17京都の知恩院にてインド独立運動に身を投じた同志たちの慰霊祭「印度独立殉死者追悼式」を挙行。
 戦時中はインド独立連盟(IIL)の議長となり日本に協力。また英印軍の捕虜のうち志願したインド人によって、イギリス軍を放逐した日本軍の占領下となったシンガポールに作られたインド国民軍の設立に関わる。'43.7.4シンガポールにおけるインド独立連盟総会において、インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を、チャンドラ・ボースに移譲し、自らはインド独立連盟名誉総裁となった。同.10 日本政府の援助を受けてシンガポールに自由インド仮政府を樹立。指導者の一人となり、日本政府の協力を受けてイギリスと闘争。またインド国民会議派をはじめとするインド国内の独立勢力との提携を模索した。同.10.24 インドを支配するイギリスを含む連合国に対して、インド仮政府はインド独立のために宣戦布告を行い、同.11.5東京で開催された大東亜会議にボースが出席。
 度重なる心労もあり入院するほど体調が悪化し、'45.1.21インド独立前にA.M.ナイルらに看取られながら日本にて逝去。享年58歳。日本政府はその死に際し、勲2等旭日重光章を授与してボースの功績を称えた。同.6.17 一人息子の正秀は陸軍戦車隊の一員として沖縄戦線で戦うも戦死。同.8.19 同志のチャンドラ・ボースも台湾上空で航空機事故に遭遇し死去(杉並区蓮光寺)。二年後、'47.8 インドは独立を成就した。インド政府はその功績を偲び記念切手を発行している。
 なお、'82 ボースと行動を共にしたA.M.ナイルが『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録』を出版し、チャンドラ・ボースの過大評価と、ラス・ビハリ・ボースの過小評価を正すことが書かれている。また日本軍が占領したアジア地域に住む200万人近いインド人の生命と財産を保全したのはボースと私の功績である。その例として、末端の日本兵がインド人を見分けるための簡単な方法を伝授し、まず「ガンジー」と尋ねること、それが肯定の答えであればその人間は(インド人であるため)大事に扱えということを大本営はマレー地区の司令部に伝えたという。

<「人物昭和史2 実業の覇者〈相馬愛蔵〉」井出孫六>
<新宿中村屋/歴史・おいしさの秘密/創業者ゆかりの人々/ラス・ビハリ・ボース>
<知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録 など>


墓所

*ラス・ビハリ・ボース墓所はインド式仏塔の八面体の台座の正面に「ボース家」。その左面にボースの娘の哲の嫁ぎ先の「樋口家」も加わり、樋口家が継承されたことがわかる。

*裏面は墓誌となっており、右面からラス・ビハリ・ボースと妻の俊子の戒名と没年月日、行年が刻む。ボースの戒名は顯國院殿俊譽髙峰防須大居士。墓誌には歿六十才と刻む。俊子の戒名は雪峯院貞譽妙俊大姉。墓誌には歿二十八才と刻む。次の面は長男の防須正秀で「故陸軍中尉」という刻みと俗名の後に戒名の穎徳院敏譽俊堂正秀居士、昭和二十年六月十七日於沖縄戦死、行年二十六才と刻む。その隣の面は、樋口浩(H19.11.27歿 行年92才)、樋口哲(ボース)(H28.2.5歿 行年93才)と刻む。



第89回 ラス・ビハリ・ボース インド独立運動家 日本インドカリーの父 防須一族 お墓ツアー


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