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ボース,ビハリ

ボース,ビハリ

ボース,ビハリ

1885(明治18)〜 1945(昭和20)

インド独立運動家、純インドカリーライス紹介者

埋葬場所: 1区 1種 6側 12番

 インドのベンゴール出身。階級の厳重なインドでボースの家は四階級の第二なる王族階級であった。 祖国をイギリスの圧制より救うため1908(M41)民族革命運動に投じ、12ラホールに於て印度総督ハーディング卿に爆弾を投じ未遂、英国政府はボースの首に一万二千ルピーの懸賞金をかけた。 そのため1915(T4)日本に亡命。当時、日英同盟のもと、英国の強い要求に従って大隈内閣はボースに国外退去を命じたが、アジア運動庇護者頭山満の依頼で、相馬愛蔵(8-1-5-3)が新宿中村屋裏のアトリエにかくまった。 在京の外人の出入りが多い中村屋では目をくらませ、日英同盟の破棄されるまで身の安全が保たれた。中村屋を離れても相馬夫妻の長女俊子が連絡役となり後に結婚、日本に帰化。 ボースは相馬夫妻に恩返しするため、当時の日本で主流であった欧米カレーとは違い、27(S2)本場インドカリーを日本に紹介した。現在でも新宿中村屋の名物の一つだ。 戦時中はインド独立運動総裁として日本に協力したが、俊子は若くして過労で没し、一人息子も戦死。そしてボースもインド独立前に没した。

<「人物昭和史2 実業の覇者〈相馬愛蔵〉」井出孫六(筑摩書房)>


ラス・ビハリ・ボース墓所
 ボースの墓はインド式仏塔であり、正面にボース家とある。裏面には右からラス・ビハリ・ボースの戒名と享年。新宿中村屋の相馬愛蔵と黒光の長女でありボース婦人の俊子の戒名と享年。 そして一人息子の陸軍中尉で戦死した防須正秀(防須はボースの当て字で帰化した時の日本名)の戒名と享年が刻み、ここに眠る。

*ボース死後二年目の1947年にインドは独立を成就した。インド政府はその功績を偲び記念切手を発行している。同じくインド独立を目指していたチャンドラ・ボース(杉並区蓮光寺)も日本人妻を持ち独立前に亡くなっている。


防須俊子(ぼーす としこ)
1898(明治31)〜 1925.3.4(大正14)
インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースの妻。
 中村屋の創業者相馬愛蔵と随筆家の相馬黒光(8-1-5-3)の長女。
 ボースは国民党首領ダースらとともに祖国の独立と同胞の解放運動に奔走したが敗れ、1915(大正4)日本に亡命した。 当時日英同盟を結んでいた英国政府は抗議書を送り退去を要求、日本政府も退去命令を出すが頭山満の努力で救われ、中村屋にかくまわれた。相馬夫妻はポースを保護し捜査の目を逃れた。 やがて隠れ家を探し移ることになったが、ボースの身近で直接守り抜ける人として俊子が選ばれた。俊子は進んで従う決心をし、'18(T7)結婚、正秀(太平洋戦争陸軍中尉として戦死・同墓)、哲子の二人の子どもをもうけた。 居を変えること17回、第一次世界大戦終結でボースは日本国籍を取得し、防須とした。しかし俊子は28歳の若さで青山の新邸で死没。

<日本女性人名辞典>


関連リンク:

相馬愛蔵相馬黒光
峯一央氏 監修:ボース,ビハリ殉国の碑」より



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