長野県安曇野・穂高出身。相馬愛蔵・黒光(共に8-1-5-3)の長女。旧姓は相馬。1901(M34)一家で上京。愛蔵は東京本郷の中村屋を譲り受け、のちに新宿に移転し共にする。
女子聖学院を経て女子学院を卒業。この頃、新宿中村屋には絵画、文学等のサロンがつくられ多くの芸術家たちが出入りしていた。1911(M44)荻原碌山亡き後、中村彝は相馬夫妻の厚意で中村屋の裏にある画室に住まわせてもらい家族の一員のように迎え入れられる。'13(T2)より、寄宿舎から週末帰ってきた俊子は敬愛する彝のアトリエを掃除し、モデルをつとめるようになる。彝もしだいに俊子に好意を得るようになり、彝にとって俊子は制作欲を駆り立てるモデルとなり、俊子をモデルに何作も作品を仕上げた。
'14(T3)俊子をモデルとした「少女裸像」東京大正博覧会 美術展に出品され大好評を得たが、俊子が通う女子聖学院は裸像であったことで物議を醸した。以降も半着衣の「少女」を習作するなど彝は俊子をモデルとした作品を数多く制作し、俊子を描いた最後の作品の着衣の「小女」は第8回文展の三等賞に入賞し高い評価を得た。しかし相馬夫妻は芸術のためとはいえ展覧会で人様に娘の裸体を晒すことへの抵抗と喀血が続く彝の病に不安を得、俊子を彝から遠ざけるようにしたことで、彝は焦りから俊子に求婚を迫った。結核を理由に黒光の反対にあい、彝は失恋し中村屋を離れることになった。
'15 入れ替わるようにインドから亡命したラス・ビハリ・ボースが中村屋に身をひそめるために来た。3か月半かくまわれた後、隠れ家を探し移ることになったが、ボースの身近で直接守り抜ける人として英語が堪能であった俊子が選ばれた。俊子は進んで従う決心をし、ボースの献身的な世話役をしながら居を変えること17回に及んだ。
'18(T7)ボースと俊子は結婚。頭山満が黒光に俊子がボースに嫁いで身辺を守ることを望み、ボースの革命家としての純粋な人柄に黒光も惹かれるところがあったため婚姻関係を結んだとされる。頭山が媒酌人をつとめ、逃亡中のことであるため隠れて結婚式が行われた。同年、第一次世界大戦が終結したことを受けイギリスによるボースの追求が終わり、一家は中村屋の敷地内に新居を建て生活をする。'20長男の正秀、'22長女の哲の一男一女に恵まれた。'23.7 ボースは帰化し、新たに「防須」家を起こしたことにより俊子の姓も「防須」とした。
しかし、'25.3.4 青山の新邸で肺炎のため逝去。享年26歳。俊子の死去に伴い、二人の媒酌人をつとめた頭山の紹介で、渡辺海旭が葬儀の導師を務める。葬儀は青山の善光寺で営まれた。
<日本女性人名辞典> <「人物昭和史2 実業の覇者〈相馬愛蔵〉」井出孫六> <新宿中村屋/歴史・おいしさの秘密/創業者ゆかりの人々/ラス・ビハリ・ボース>
*墓所はインド式仏塔の八面体の台座の正面に「ボース家」。その左面にボースの娘の哲の嫁ぎ先の「樋口家」も加わり、樋口家が継承されたことがわかる。
*裏面は墓誌となっており、右面からラス・ビハリ・ボースと妻の俊子の戒名と没年月日、行年が刻む。ボースの戒名は顯國院殿俊譽髙峰防須大居士。墓誌には歿六十才と刻む。俊子の戒名は雪峯院貞譽妙俊大姉。墓誌には歿二十八才と刻む。次の面は長男の防須正秀で「故陸軍中尉」という刻みと俗名の後に戒名の穎徳院敏譽俊堂正秀居士、昭和二十年六月十七日於沖縄戦死、行年二十六才と刻む。その隣の面は、樋口浩(H19.11.27歿 行年92才)、樋口哲(ボース)(H28.2.5歿 行年93才)と刻む。
*中村彝(なかむら つね:1887.7.3-1924.12.24)は、中村屋を出た後、同郷の水戸出身者の高橋箒庵の援助を受けアトリエを新築し、病に苦しみながら絵画制作に打ち込み、「エロシェンコ氏の像」(重要文化財)など秀逸を制作し近代美術史を代表する洋画家として大作を世に出す人物となるも、37歳の若さで没した。墓は故郷水戸にある祇園寺(水戸市八幡町2-69)に建つ。
第89回 ラス・ビハリ・ボース インド独立運動家 日本インドカリーの父 防須一族 お墓ツアー
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