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ぼうす まさひで

防須正秀

ぼうす まさひで

1920(大正9)〜 1945.6.17(昭和20)

昭和期の陸軍軍人(中尉)、ボースの息子

埋葬場所: 1区 1種 6側 12番

 東京出身。祖父は相馬愛蔵・黒光(共に8-1-5-3)。父はラス・ビハリ・ボース、母は俊子(共に同墓)の長男。相馬安雄(8-1-5-3)は叔父。樋口哲子(同墓)は妹。
 黒光の遺稿集『滴水録』(S31.2:相馬安雄 発行)に生まれた時の様子が描かれている。「幸い知人の産婆で秘密を厳守してくれる人があり、安産であった。狭い家でのお産の間、ボースはどこにいさせたらいいのか、ただ間の襖を締め切ってお産が済んで初めて襖を開き、男子の出生を告げた」。
 '23(T12)父のボースが帰化し「防須」家を立てたため姓が防須となる。'25(T14)母の俊子を亡くしたため祖父母に育てらる。早稲田大学に進学。早稲田大学は相馬愛蔵の母校であり、中村屋は多額の寄付もし援助していたこともあり、中村屋では男子は早稲田大学、女子はミッションスクールの女子学院へと進学先が決まっていた。大学では自動車部で活躍。
 '42.9(S17)太平洋戦争悪化に伴い陸軍少尉として任官。沖縄戦に従軍し、陸軍戦車隊の一員として戦うも戦死。享年25歳。最終階級は陸軍中尉。
 '51正秀と戦地を共にし北海道十勝に復員していた田中義徳から黒光宛に当時の状況を知らせる手紙が届いた。田中は捕虜となったため、正秀の遺品など取り上げられなく最後の戦闘場所の摩文仁の海岸で拾った石を持ち帰り、遺骨代わりに同封されていた。これをきっかけに、'53黒光は著『摩文仁の石』〜防須正秀戦死覚えがき〜 と副題をつけて刊行している。

<「人物昭和史2 実業の覇者〈相馬愛蔵〉」井出孫六>
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墓所

*墓所はインド式仏塔の八面体の台座の正面に「ボース家」。その左面にボースの娘の哲の嫁ぎ先の「樋口家」も加わり、樋口家が継承されたことがわかる。

*裏面は墓誌となっており、右面からラス・ビハリ・ボースと妻の俊子の戒名と没年月日、行年が刻む。ボースの戒名は顯國院殿俊譽睚防須大居士。墓誌には歿六十才と刻む。俊子の戒名は雪峯院貞譽妙俊大姉。墓誌には歿二十八才と刻む。次の面は長男の防須正秀で「故陸軍中尉」という刻みと俗名の後に戒名の穎徳院敏譽俊堂正秀居士、昭和二十年六月十七日於沖縄戦死、行年二十六才と刻む。その隣の面は、樋口浩(H19.11.27歿 行年92才)、樋口哲(ボース)(H28.2.5歿 行年93才)と刻む。



第89回 ラス・ビハリ・ボース インド独立運動家 日本インドカリーの父 防須一族 お墓ツアー


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