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こうの じろう

河野次郎

こうの じろう

1856(安政3)〜 1934.4.18(昭和9)

明治・大正・昭和期の画家、図画教育者

埋葬場所: 13区 1種 27側

 江戸出身。足利藩戸田氏家臣の杉本奥太郎安志御中姓席の三男として足利藩神田上屋敷にて母の多希(たけ)のもとに生まれる。1868(慶応4)藩命により足利に帰藩、足利学校に入る。この頃より田崎草雲に南画を学ぶ。
 1874(M7)上京して高橋由一に師事し洋画を学ぶ。油彩画や水彩画だけでなく、銅版画や石版画もよくし、後年は写真家としても活躍した。西洋文化の移入と摂取が国家的な課題とされていた明治初めに、西洋美術の世界を取り入れていったパイオニアの一人。
 1876足利県下等小学校の教師となる。同年、長野県の河野権平の家へ入籍する(養子)。日本の画学教育の必要性を説いていた愛知県第一師範学校校長の伊沢修二の誘いで、愛知県第一師範学校と愛知県第一中学校の画学教員となる。新しい日本の小学校・中学校画学教科書の作成も託され、1877銅版画挿図入りの洋画教科書『画楽階梯』3巻を完成させた。1880小学生・中学生対象の鉛筆画・水彩画を教える洋画塾を開校。
 1882伊沢が長野県師範学校松本支校に移り、同校の三等助教諭として招かれ移る。1883名古屋で出会い長野に連れてきた古橋ます(同墓)と結婚。1884遠近法を駆使した構図の書き方、色々な絵の具を混ぜて微妙な色を作り出す色彩論、鉛筆画や水彩画の描き方をまとめた『小学中等科画帖』が完成。自宅に子どもたちを集めた絵画塾も開校。1885長野県師範学校内で開いた夏期講習会に中村不折(3-1-15-10)が参加し、鉛筆画や水彩画を教える。また中村不折へ上京を促しサポートもした。この頃、伊沢が長野県尋常師範学校に異動したので、次郎も教師として迎え入れられた。
 1888ハリストス正教会復活会堂が自宅近所に建設され、欧米文化に興味があった次郎は司祭と親しくなり、翌年、母の たけ、妻の ます と共に洗礼を受けた(洗礼名:次郎はアレキセイ、母はルキヤ、妻はエリサベタ)。
 1895妻に子が与えられないことを司祭に相談をした結果、別家から子を貰い受けるか、代理母に産んでいただくかと回答され、後者を選ぶ。教会員の ふく が代理母を引き受けてくれることになり、元気な男子が誕生した。それが大正時代の異才の画家と称された河野通勢(同墓)である。当初「つうせい」と名付けようとしたが、代理母を勧めてくれた司祭がロシア人で発音がよくできないと言われたので、「みちせい」という呼び方にしたという逸話がある。また乳離れした通勢をどう育てて良いのかわからず、子宝に恵まれていた6つ年下の伊勢崎に住む弟の飯塚悦蔵に相談をし、しばらく引き取ってもらった。この頃、伊沢は政府の要請で音楽教育研究のため渡米することになった。しかし、次郎はそのまま長野に定着し、1895写真館を開業した。
 1928(S3)隠居のため学校現場をリタイアした。同時に通勢と共に東京の小金井に転居した。享年78歳。

<河野通勢ギャラリー「河野次郎(こうの じろう)年譜」河野恒人など>


*墓石は洋型「河野家」、上に十字架が刻む。左面に「昭和丗八年八月吉日 河野通明 之建」と刻む。裏面が墓誌となっており、「アレキセイ 河野次郎」と没年月日が刻む。続いて妻の「エリサベタ 河野ます」、長男の「ペートル 河野通勢」、通勢の妻の「オリカ 河野光子」、孫の「ウラジミル 河野通明」と刻む。

*河野次郎が亡くなった時は、遺体は緑の布で覆われた棺に納められ、多磨霊園のこの地に土葬され、盛り土の上に20センチ角の立派な白木の十字架「河野次郎の墓」が建てられた。現在の墓石は河野通明によって建之し直された。

*河野次郎の子の通勢と光子との間に4男2女を儲ける。長男の河野通明(同墓)は洋画家。3男にあたる河野恒人は次郎と通勢の作品計453点を足利市立美術館に寄贈した。


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