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こうの つうめい

河野通明

こうの つうめい

1919.4.24(大正8)〜 1993.3.5(平成5)

昭和・平成期の洋画家、挿画家

埋葬場所: 13区 1種 27側

 長野県出身。祖父は画家・図画教育者の河野次郎(同墓)。父は洋画家の河野通勢・光子(共に同墓)の長男として生まれる。明星中学校卒業。1946(S21)武者小路実篤主宰、父も創立委員で携わっていた新しき村美術展に初出品。のち新しき村美術展委員を務める。この間、挿画家として時代物を多く手がける。清春白樺美術館評議員を務めた。
 '62大調和会の復活第1回展の創立委員となる。大調和会は発表の場を失っていた岸田劉生(12-1-11-11)を画壇に登場させたいと、武者小路実篤が'27、'28に開催したが、岸田劉生の死により解散をしていた。以来30有余年振りに、武者小路実篤を会長として復活開催する運びとなった。大調和会は'76会長没後も継続し、現在も続いている。著書に『岸田劉生のこと』『劉生展について』などがある。

<20世紀日本人名事典など>


*墓石は洋型「河野家」、上に十字架が刻む。左面に「昭和丗八年八月吉日 河野通明 之建」と刻む。裏面が墓誌となっており「ペートル 河野通勢」と没年月日が刻む。妻は「オリカ 河野光子」と刻む。同墓には父「アレキセイ 河野次郎」、母「エリサベタ 河野ます」、長男「ウラジミル 河野通明」と刻み眠る。

*ヨミを「ミチアキ」とする人名事典もある。

*河野次郎が亡くなった時は、遺体は緑の布で覆われた棺に納められ、多磨霊園のこの地に土葬され、盛り土の上に20センチ角の立派な白木の十字架「河野次郎の墓」が建てられた。現在の墓石は河野通明によって建之し直された。


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