長野県出身。父は画家・図画教育者の河野次郎、母はます(共に同墓)。ますに子宝が授からなかったことを次郎夫妻はハリストス正教会のロシア人司祭に相談をし、代理母に出産をしてもらうことを決め、同教会員の ふく によって誕生した。当初「つうせい」と名付けようとしたが、代理母を勧めてくれた司祭がロシア人で発音がよくできないと言われたので、「みちせい」という呼び方にしたという逸話がある。また乳離れした通勢をどう育てて良いのかわからず、子宝に恵まれていた次郎の6つ年下の伊勢崎に住む弟の飯塚悦蔵に相談をし、しばらく引き取ってもらった。幼少期は伊勢崎で育つ。9歳の時にハリストス正教会で洗礼を受けた(洗礼名は「ペートル・アレクセヴィチ・ミチセイ・コーノ」)。
1913(T2)旧制長野中学校を卒業。この間、父の所蔵の輸入美術書などから啓蒙を受け、ほとんど独学で洋画を学んだ。'14 第1回二科展に『蛇の家』などを出品し初入選する。'15岸田劉生(12-1-11-11)と出会い交友を深める。長野で裾花川の風景の作品や自画像を描くことに没頭していたが、'17第11回文展に出品した自画像が特選候補に選ばれ、一躍洋画界で認められ上京する機会が増えた。そこで、お付き合いをしていた光子(同墓)の姉の妙子が土屋増治郎と結婚して東京に住んでいたので滞在させてもらう。時間を見つけては隠田の雑木林や野原に出かけ写生をしていた。隠田近くの草原で写生をしていた時、写生をする通勢を岸田劉生が見かけ、声を掛けられ、話も弾み、劉生のアトリエに招かれた。それを機会に劉生が運営する「草土社」の同人に迎え入れられた。草土社展には第3回に素描を出品し、第6回〜最終回の第11回まで同人として出品した。劉生の影響を受けた細密な写実表現と、聖書や歴史など西洋画に範をとった題材を特徴とした。同年は文展でも入選。同.11野村定吉の二女の光子と結婚。
大正半ばから後半にかけては、正教の聖伝に題材をとった絵画・聖書の場面を描いた絵画や、聖書の挿絵など、キリスト教に題材をとった作品が数多く描いた。また銅版画も描くようになる。'19白樺主催の「聖書挿画展覧会」では、油彩画、ペン画、墨で描かれた作品60余が展示された。
'22関東大震災で草土社が活動を停止し、岸田が京都に移住。通勢は東京に残り、浅草など東京の現代的な風俗を描いた土呂絵や、浮世絵の題材などの芝居関連の作品を描く。この頃はカリカチュア(誇張した人物画)にも興味を示し多く作品を残す。大正半ば頃から手がけていた小説挿絵の制作で人気画家となり「大正の鬼才」と称された。また日本画も描くようになり、東京府美術館開館記念の聖徳太子奉賛美術展覧会に出品された「蒙古襲来之図」は、油彩でありながら金雲で画面を構成和洋折衷の試みが見られる。
'24春陽会、'27(S2)武者小路実篤らが創設した大調和会展、'29椿貞雄らが参加していた国画会に所属し作品を発表した。'41大東南宗院に参加、本格的に南画を始めた。水墨画の作品もかなりの数が遺されている。'45武者小路実篤主宰の新しき村美術展の創立委員となり参加。肺炎のため東京都小金井市にして逝去。享年54歳。葬儀はニコライ堂で行われ、葬儀委員長は武者小路実篤がつとめ、弔電は牧島如鳩によって朗読された。
*墓石は洋型「河野家」、上に十字架が刻む。左面に「昭和丗八年八月吉日 河野通明 之建」と刻む。裏面が墓誌となっており「ペートル 河野通勢」と没年月日が刻む。妻は「オリカ 河野光子」と刻む。同墓には父「アレキセイ 河野次郎」、母「エリサベタ 河野ます」、長男「ウラジミル 河野通明」と刻み眠る。
*父の河野次郎が亡くなった時は、遺体は緑の布で覆われた棺に納められ、多磨霊園のこの地に土葬され、盛り土の上に20センチ角の立派な白木の十字架「河野次郎の墓」が建てられた。現在の墓石は河野通明によって建之し直された。
*通勢と光子との間に4男2女を儲ける。長男の河野通明(同墓)は洋画家。3男にあたる河野恒人は次郎と通勢の作品計453点を足利市立美術館に寄贈した。