東京銀座出身。父は明治時代に新聞記者として活躍した岸田吟香の4男として生まれる。弟にオペラ歌手・作家の岸田辰彌(13-1-5)がいる。辰彌の妻は宝塚歌劇のスターだった浦野まつほ(13-1-5)。
1908(M41)白馬会研究所に入り、黒田清輝に師事。'10 第4回文展に外光派風の作品で入選。雑誌「白樺」の影響をうけ、誌上に紹介された後は、印象派の作品に傾倒。'12(T1) 斎藤与里、木村荘八らとフュウザン会を結成。
自画像や肖像画制作を得意とし、また北欧ルネサンスの絵画に関心を示す。'15 草土社(そうどしゃ)を興し、翌年『切り通し』の写生(切通之写生)を発表。'17『初夏の小径』で二科賞を受賞。大正画壇に異彩を放ち活躍した。
愛娘をモデルにした一連の「麗子像」制作し発表。麗子(同墓)は岸田劉生の娘で、12年間に渡りモデルとして書き続けた連作であるため、様々な麗子像があり50点ほど描いているとされる。ダ・ビンチの「モナ・リザ」にヒントを得たという麗子像は、神秘的な微笑が印象的である。また学校の美術の教科書に必ず載っている「麗子像」は東京国立博物館所蔵の絵である。
'22 草土社解散後は春陽会客員を兼ねた。制作のうえでは、しきりに水墨談彩の東洋画を描く。やがてたどりついた画境が「デロリ」だった。デロリとは劉生曰く「現実的、卑近味、猥雑、濃厚、しつこさ、皮肉、淫蕩、戯け等の味」「多少変態的な快感、グロテスクなものに対する牽引、こはいものみたさの不思議なる心の欲望」と語っている。
かなりの潔癖症として知られ、周囲を困惑させるほど病的な神経質でもあり、汚物が腕に付着した時は「腕を切り落とせ」と言い出したほどで、また、くしゃみをすればすぐにアスピリンを服用していた。社交的であるものの関わりづらい人物であったと逸話が残る。
'29(S4)満州旅行を行い大連で『大連星ヶ浦風景』などを描いた。帰国し、山口県徳山に滞在中の年末、体調不良を訴え、医者から慢性腎臓炎による視力障害と診断される。しかし腎臓だけでなく胃・肝臓・心臓までも既に侵されており、視力もドンドン低下していた。そして、同.12.20 胃潰瘍と尿毒症のため、多量の吐血とともに38歳の若さで逝去。