東京市銀座出身。ジャーナリストの岸田吟香(谷中霊園:乙12号7側)の5男。7男5女の兄弟ですぐ上の兄が「麗子像」で有名な洋画家の岸田劉生(12-1-11-11)。兄の劉生とは仲が良く、1924(S4)劉生が日本で描いた最後の肖像画「岸田辰彌之像」がある。妻は宝塚歌劇のスターだった浦野まつほ(同墓)。孫に天使画家の岸田尚。
1914(T3)帝劇演劇部(洋劇部)2期生として「天国と地獄」でデビュー。ジョバンニ・ローシーの教えを受け、その後、伊庭孝が主宰した浅草の新星歌劇団で人気オペラ歌手として活躍した。'19(T8)京都興行の際、小林一三が歌も踊りも出来、脚本も書ける人物として、創設6年目の宝塚少女歌劇団のダンス指導者としてスカウトされ、宝塚少女歌劇に入団する。当初は西洋音楽を取り入れた日本の歌劇を誕生させるために少女歌劇だけでなく男性歌劇俳優を育てる「男子養成会」の指導者を必要としたこともあったが、男子養成の計画は短期間で中止されたため、岸田は作家・演出に専念することになり、喜歌劇、歌劇、舞踊劇、お伽歌劇、夢幻的歌劇の作品を手掛けた。'23関東大震災の翌月に『宝塚少女歌劇団脚本集』を刊行。
家族そろって鑑賞できる大劇場向きの作品をつくるためパリに派遣され、一年余の欧米の劇場視察から帰国。'27.9.1(S2)日本初の本格的レビュー『モン・パリ』を帰国公演として発表。この作品は、レビューの本場である海外を視察した岸田自身をモデルとした主人公が、パリや外国の風景を再現するという内容のレヴューである。幕無し十六場・登場人物延べ数百人・上演時間1時間30分という、それまでの常識を覆すもので、少人数・短時間の公演をしてきた宝塚歌劇団にとって考えられないほどの大作で大変大掛かりなものだった。また宝塚のシンボルとなった大階段やラインダンスの登場など、「宝塚歌劇スタイル」を確立した記念すべき作品でもある。なお14期生として入団し、後に辰彌の妻となる浦野まつほの初演でもあった。一大センセーションを巻き起こし、日本レヴュー界の先駆者と称された。9月1日はレヴュー記念日としている。また『モン・パリ』は宝塚歌劇団初のロングランとなり、主題歌「うるわしの思い出 モン・パリ」(岸田作詞)のレコードは、通信手段の発達していない当時で約10万枚を売り上げ、大ヒットを記録した。
以降も精力的に作品を発表し、'28ミュージカル・プレイ「ハレムの宮殿」ではフィナーレに大水槽を使用するなど新たな試みも行った。初期の宝塚歌劇において非常に重要な作家・演出家であり、多才な人物として知られる。'38星組公演グランドレビュー『満州より北支へ』が最後の作品となった。享年52歳。岸田の弟子の白井鐵造が継承し、現在の宝塚スタイルを確立した。