本籍は山形県鶴岡市。東京出身。父は上海事変で戦死し軍神と称された陸軍少将の林大八(同墓)。祖父も陸軍少佐の林秀芳(同墓)。年少の頃から忠君愛国の精神をたたき込まれ育つ。しかし、兄の林俊一(同墓)が左翼運動に走ったこともあり、国家改造の影響を受けた急進派でもあり影響を受ける。
東京府立第四中学、仙台陸軍幼年学校を経て、1935(S10)陸軍士官学校卒業(47期)。歩兵第一連隊第一中隊付歩兵少尉に任官。ここで栗原安秀中尉の直接行動への眼を開かれ、武力による決起を本格的に志向しだす。任官して一年も経たずして、決起将校の一員(最年少)として2.26事件に連座した。
2.26事件とは、1936(S11)2月26日に陸軍皇道派青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行 尊皇討奸」を掲げ、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、腐敗が収束すると考え起こした反乱事件、クーデター未遂事件である。
林八郎は第一隊に属した。第一隊の指揮を執る栗原安秀中尉の第3小隊を率いた。なお、第1小隊を栗原自身、第2小隊を池田俊彦少尉、機関銃小隊を尾島健次曹長が率いた。
午前五時頃、襲撃部隊が岡田啓介(9-1-9-3)内閣総理大臣がいる首相官邸に侵入。林八郎率いる兵は裏門から侵入した。
官邸の玄関で襲撃隊を阻止しようとした小館喜代松巡査はその場で殺害。
官邸内の非常ベルが鳴り響く中、首相秘書の松尾伝蔵が官邸内の電灯を消してまわる。
松尾と警備の警官の土井清松(12-1-15)巡査は首相の寝室に飛び込んで岡田首相を連れ出す。
この時、庭の非常口近くでは清水与四郎巡査が守っていたが機銃弾に倒れる。
岡田首相の外への脱出を諦め、駆けつけた村上加茂衛門(12-1-15)巡査部長と三人で岡田首相を浴場に隠す。
その後三人は廊下で応戦する。村上巡査部長は椅子を盾に拳銃で応戦していたが、射殺された。
土井巡査は林八郎に組み付いたが、他の兵隊に後ろから切り伏せられる。
松尾は中庭で射殺された後に寝室に運ばれ、そこに在った岡田首相の写真と比べられ、その写真の上にはめ込まれていたガラスに眉間の辺りからひびが入っていたこともあり、そのまま岡田首相だと断定された。
松尾伝蔵は岡田首相と親類である。その後、福田首相秘書官と迫水久常(9-1-8)首相秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹及び小倉倉一憲兵伍長らの協力を得て、弔問客に変装させて27日に岡田首相を官邸から救出した。
2.26事件では他の部隊が元老重臣を襲撃している。大蔵大臣であった高橋是清(8-1-2-16)が赤坂表町3丁目の私邸で襲撃され殺害された。
内大臣であった斉藤実(7-1-2-16)が四谷区仲町3丁目の私邸で襲撃され殺害された。
教育総監であった渡辺錠太郎(12-1-10-15)が杉並区上荻窪2丁目の私邸で襲撃され殺害された。
天皇側近たる侍従長を務めていた鈴木貫太郎が、麹町区三番町の侍従長官邸で、安藤輝三大尉が指揮する襲撃部隊に襲撃される。
妻の鈴木たかの懇願により、安藤大尉はとどめを刺さず敬礼をして立ち去ったため、一命を取り留める。
他に、牧野伸顕、後藤文夫が襲撃にあうが、難を逃れた。
襲撃後、昭和天皇が重臣を殺害しこれを正当化する反乱将校に激怒し、灰色決着を許さず、武力鎮圧を強固に命じ、天皇自ら近衛部隊を率いて反乱軍と戦うという発言をした。
29日に討伐命令が発せられ、攻撃開始命令が下される。反乱部隊は帰順し、あえなく失敗に終わり、反乱部隊将校は投降した。
林八郎や安藤輝三など襲撃部隊を率いた将校たちは叛乱罪で死刑判決を受け、7月12日渋谷区宇田川町の陸軍衛戍刑務所の隣にある代々木練兵場にて処刑された。享年21歳。
処刑22名の中の北一輝を除いて全員「天皇陛下万歳」と叫び、日本国の発展を願って断頭台に立った。
林八郎の死刑執行を撃ったのは同期の真藤少尉である。
処刑後、東京都渋谷区神南に「二・二六事件慰霊塔」、麻布賢崇寺に「二十二士の墓」が建立され、毎年2月26日と7月12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われている。その法要では真藤少尉が尺八献奏を行なっていた。
*2・26事件首謀者として刑死した社会主義者の北一輝の弟、北昤吉の墓は4-1-35。
*2・26事件の反乱軍に同情的な態度をとって左遷された荒木貞夫陸軍大将は8-1-17。
*村上嘉茂左衛門墓所と土井清松墓所は隣りあってあり、各々の墓所には殉難碑(内務大臣:後藤文夫による)が建つ。なお殉職した警察官には、勲八等に叙され白色桐葉章を授けられた。
また、内務大臣より警察官吏及び消防官吏功労記章を付与された。
*まさに襲撃にあい、命を落とした高橋是清邸宅は、1938(S13)に東京市へ寄贈された。
主屋部分は3年後、多磨霊園に移築され有料休憩所『仁翁閣』として1975(S50)まで活躍した。
現在は江戸東京たてもの園に復元されている。
*墓所には三基。正面「陸軍少将 従四位勲三等功三級 林大八墓」。右手前に「林家累代之墓」。その右横に二名の戒名が刻む石柱。林大八の墓石の右面に「昭和七年三月一日戦没於江湾鎮西厳家楷」と刻む。裏面に林大八の略歴が刻み、建之者として林俊一と林八郎の名が刻む。林大八墓石の両手前には林大八歌碑柱が建つ。林家累代之墓の右面には「林秀芳 大正十一年八月十二日歿」と刻み、裏面は「大正十二年八月 林大八 林俊助 建之」と刻む。墓所内には墓誌があるが、林八郎の刻みはない。なお林八郎の戒名は誠徳院一貫明照居士。
*林八郎は獄中、蹶起の心情を訴え、事件の成功と失敗を述べた烈々たる遺書が書き残されている。
母への遺詠
御心をやすむる時もなかりしが
君に捧げし此の身なりせば
母上様に捧ぐ
昭和十一年七月十一日 八郎