東京出身。薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁禮景範・寿賀子の長女として生まれる。旧姓は仁禮。兄の仁禮景一は日露戦争で初瀬分隊長として戦死、弟の仁礼景雄は昆虫学者。
8歳の時、母と共に明治天皇、皇后の御機嫌伺いに参内。女官の税所篤子の案内で、昭憲皇后へ拝謁、緋縮緬のしごき、紙入、カンザシを拝領した。1884(M17)明倫女学校卒業。
1887母に伴われ参内した際に昭憲皇后から手作りの反物、マフラー、羽織下を賜る。1888カナダの宣教師ミス・カートメルが設立した東洋英和女学校本科2年前期終業。父が横須賀鎮守府司令官の転勤に伴い、東洋英和女学校を中退。
1892.2.5(M25)斎藤實(当時35歳)と結婚。春子は20歳であった。實がアメリカ派遣中に、アメリカアナポリス海軍兵学校に留学していた兄の景一が世話になり、また、父の先見の目もあり、15歳差であったが嫁ぐことになった。
以降、夫の實は岳父である仁禮景範の後ろ盾を得て出世していくことになる。この時、岳父は海軍大臣。なお、結婚式の媒酌人は海軍の大御所として名声が高かった山本権兵衛、出席者12人という質素な婚礼であった。以後、斎藤實が2・26事件で凶弾に倒れるまでの45年間を共に歩む。
1894母に伴われ半年間、広島の日清戦争大本営に篤志看護婦として勤める。1896實が海軍次官となり、山本大臣の大臣代理として様々な行事に出席することが多く、同伴する春子の洋装と英語力が夫を助ける。
日露戦争の折には、諸外国に開戦を知られないよう、御前会議を途中退席し春子同伴で晩餐会に出席したというエピソードも残されている。
春子の英語力は「夫人外交」として夫を助けたことが広く知られている。1919(T8)實が朝鮮総督に就任し、夫婦で任地に赴いた際、京城駅で爆弾を投げられるが、二人とも無傷だった。
'20.4から始めた實の十三道巡視に春子も同伴し朝鮮各地を回り、排日感情の緩和に内助の功を尽くした。'27(S2)實の首席全権委員としてジュネーブ海軍軍縮会議に参加に際し同伴し渡欧。
会議はアメリカとイギリスの対立で決裂したが、調整案を示し調停の立場をとった斎藤實に対する評価は高く、「国際人斎藤」を内外に知らしめる場となった。その陰に、英語に堪能で各国代表や同伴の夫人と交歓する春子の存在があった。'32實が内閣総理大臣に就任し首相夫人となる。
'36.2.26(S11)青年将校らが「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデター事件を起こした、2・26事件。内大臣を務めていた斎藤實も凶弾に倒れた。
その時、春子は機関銃の筒先をもち「斎藤の命は国家に捧げた者です。時期が来ればさしあげます。まだその時ではありません。斎藤を撃つなら私を殺してください。」と叫び続け、身を以て夫をかばったとされる。これにより、両手と背中を撃たれ負傷した。
'41日本赤十字社篤志看護婦人会員となり救急事業などに貢献する。'45戦争悪化に伴い斎藤斉一家と伴に岩手県水沢に疎開する。この時、貨車一台分に積んだ遺品の数々が貴重な資料となる。
疎開先の邸宅は、'31斎藤實が朝鮮総督府退任の際、朝鮮の方々のご芳志により 誕生地に家を建設してもらった家である。終戦後、斎藤斉一家は東京に戻ったが、春子は一人、この邸宅に残り隠棲。
'63水沢市名誉市民。同年、斎藤邸を水沢市に寄付することを表明。'71(S46)当地にて98歳の長寿を全うした。遺言により、眼をアイバンクに提供する。