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きた れいきち

北 叉

きた れいきち

1885.7.21(明治18)〜 1961.8.5(昭和36)

大正・昭和期の哲学者、政治家

埋葬場所: 4区 1種 35側 6番

 新潟県佐渡島両津湊町(佐渡市)出身。酒造業、初代両津町長を務めた北慶太郎・リクの次男として生まれる。兄の北一輝は国家社会主義者。号は鴨湖、光永、禮華。
 早稲田大学卒業後、1914(T3)より母校で講師となり哲学を教える。大正デモクラシーでは民本主義の学問的根拠や政治学のあり方をめぐり吉野作造(8-1-13-18)と論争をした。'18渡米、ハーバード大学に留学し、'22帰国して母校教授となった。また、大東文化大学や大正大学の教授も兼務。
 '28(S3)理想主義的立場から国家主義を鮮明にし、雑誌「祖国」を創刊。翌年、祖国同志会を結成した。'35多摩帝国美術専門学校(多摩美大)創立に参加。
 '36.1.21第19回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し初当選(以降当選8回)。しかし、選挙から6日後に2.26事件が起こる。 革命的な国家社会主義者で叉箸侶擦任△詼粍豕韻記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた青年将校たちが決行したテロ事件である。 これにより岡田啓介(9-1-9-3)内閣は総辞職した。これを機に立憲民政党に入党。'37.8.19兄の北一輝が2.26事件の理論的首謀者とされ銃殺刑で処刑された。 罪状は国家転覆罪・叛乱罪(実際は反乱幇助であり、計画は知っていたが指揮等の直接関与は行っていなかったとされる)での死刑判決。
 戦時中は鳩山一郎、尾崎行雄らと大政翼賛会に反対し、議員有志の同交会を結成。'45.10終戦後すぐ鳩山一郎らと共に日本自由党を結党。 '46.4第22回衆議院議員総選挙で第1党となり、政務調査会長となるも、公職追放となり一端政治活動から離れる。'51解除後、再び政治家に復帰し、日本民主党、自由民主党の幹部となった。'55衆議院懲罰委員長も務めている。
 この間、'52評論雑誌「猶興」を創刊。兄の北一輝の『国体論』を復刻するなど、兄の思想を肯定的に評価した。 主な著書に、『ベルグソン哲学の開設及び批判』(1914)、『光は東方より』(1918)、『妥当性の哲学』(1924)、『哲学概論』(1926)、『哲学行脚』(1926)、『昭和維新』(1927)、『人間観』(1928)、『再革命の独逸』(1933)、『思想と生活』(1937)、『ファッショと国家社会主義』(1937)、『排撃の歴史』(1941)、『戦争の哲学』(1943)などがあり、また訳書も多数刊行している。享年76歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所

*墓石には「北家之墓」。裏面に3歳で没した子の北光に対する哀悼の撰と伴に、「昭和三年 北叉 建之」と刻む。長年墓誌は建っていなかったが、平成23年9月10日に28歳の若さで没した北叉帆渋垢了嵜絏惰犹劼茲蝓∋嵜絏箸鯊蠅靴進荵錣志水佳比古 建之で平成二十三年十月吉日に建つ。

*北叉箸硫名は威徳院釈政賢居士である。

*兄の北一輝の墓所は東京都目黒区下目黒にある龍泉寺に「北一輝先生之墓」として建つ。なお、同寺には国家主義者の大川周明も眠る。

*北叉箸諒譴離螢は佐渡の新穂村の大地主である本間家の出。リクの弟は新潟県会議員を務めた本間一松。リクの妹は佐渡の名家であった大蔵家に嫁ぎ、共産党系の弁護士の大蔵敏彦や俳優の丹波哲郎(2-1-6-15)の妻となる貞子を産んだ。


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