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むらおか そいちろう

村岡素一郎

むらおか そいちろう

1850.10.18(嘉永3)〜 1932.5.25(昭和7)

明治・大正・昭和期の官吏、教育者、民間史論家

埋葬場所: 7区 1種 9側 20番

 筑前国博多出身。黒田藩医の村岡養益の子として生まれた。家は相模の村岡五郎良文(桓武天皇の四代後裔平髙望王の五男で平安時代中期の武将の平良文)の跡という。号は融軒、公融。
 1865(慶応1)阪巻塾で漢学を学ぶ。19歳で維新に際し、征討軍に加わり戊辰戦争に伴って福岡藩兵として出陣するも、戦地に到着する前に函館戦争が終結。福岡に戻り、藩校の修猷館で学んだ。廃藩置県後の農民一揆や佐賀の乱では旧藩士の不穏な動きの鎮圧にあたった。
 1875(M8)東京に出て、茗渓師範学校(東京高等師範学校)に入学し、1878 卒業。 同年、北海道開拓使函館支庁に招かれ、教育行政を担当。1880 函館師範学校の監督を任ぜられ、1882 函館県学務課長心得を兼務し、同.10 兼任のまま函館師範学校初代校長に就任した。1883 根室県学務課長に転じる。1884 官職を辞して東京に戻る。
 東京では歴史研究を行い、1889『日本神学新説』を出版。1890 旧知の時任為基が静岡県知事に就任したことで誘いを受け静岡県属に就任し教育職役人となる。静岡県という徳川家康と縁が深い土地の官吏をしていたことで、多くの家康にまつわる文献を読むにあたり、家康の出自に疑問を抱き、公職の傍らで調査、研究を始める。静岡市の講演会で「家康の出生の研究」を発表し反響を呼ぶも、問題視され、1894 免職になり、東京に戻った。
 1896 根室の花咲尋常高等小学校 兼 弥生尋常小学校の校長として復帰し、その後、愛知県豊橋の郡視学、岐阜県の県視学など学校関係の職を得て各地を回る。1900 再び休職。
 その間も、家康の旧蹟、秘録、社記などその伝記に対する批判の材料を集め考察を行い、家康は途中ですり替えられた説や出自に対する疑問に基づく考えをまとめ、1902『史疑 徳川家康事蹟』を刊行した。村岡は歴史学者ではないため、学者としての論述ではなく、断片を推察的に主張したものであったため、桑田忠親らの反対論者も出て論争になるなど注目を浴びた。加えて著書の内容に憤激した徳川家一族や旧幕臣らが圧力をかけたために絶版になった。
 本を刊行した同年('02.6) 新設の八代郡立高等女学校の初代校長に任命され着任したが、同.12 辞任して東京に戻り、東京高等師範学校の寄宿舎舎監に任ぜられた。'07 東京高等師範学校関係者による孔子祭典会の再興に参加して『儒教回運録』を執筆し、まもなくして退職した。
 晩年は長男で中国大陸で満鉄の管弦楽団楽長を務めていた音楽家の村岡祥太郎(同墓)と同居するため天津に移住。のちに大連に移り、その地で病死。享年81歳。

<20世紀日本人名事典>
<物故事典など>


墓所 墓誌

*墓石は和型「村岡家之墓」、裏面「昭和十八年十月三日 村岡正三郎 建之」。墓所左側に墓誌が建つ。俗名・歿年月日・行年が刻む。村岡素一郎には号「公融」が刻む。長男で音楽家の村岡祥太郎には雅号「楽童」が刻む。孫で墓所建立者の村岡正三郎(H9.10.8歿・行年84才)、村岡順四郎(S17.9.17・行年27才)は「海軍飛行曹長 ニューギニア歿」ある。「正四位 従四位 勲三等瑞寶章」と刻む村岡五郎(1916.9.21-1986.11.30)は北海道帝国大学農学部卒業後、獣医学者として活躍した人物。


【史疑 徳川家康事蹟】
 村岡素一郎は1902(M35)『史疑 徳川家康事蹟』を徳富蘇峰(6-1-8-13)の民友社より出版した。重野安繹(内閣修史編修官兼東京帝国大学教授)が序文に協力している。定価は25銭。初版500部刊行された。しかし、この本は公爵徳川家等の圧力により重版されず、絶版となった。戦後、昭和30年代に作家の南條範夫が『願人坊主家康』、『三百年のベール』を出版。八切止夫が小説『徳川家康は二人だった』、隆慶一郎が小説『影武者徳川家康』、村岡の外孫に当たる榛葉英治が『史疑徳川家康』を出版したことにより、村岡説が唱えた徳川家康の出自の史疑が再注目されるようになった。これに伴い、'65原本の集録が行われ、『明治文学全集77 明治史論集』として筑摩書房より発行された。また、外孫の榛葉英治(1912-1999)が亡くなった後、2008(H20)榛葉が編著した『史疑 徳川家康事蹟』が『新版 史疑 徳川家康』として刊行された。


【徳川家康影武者説】
 村岡素一郎は、徳川家康の伝記に対する真偽の考察に当たって、まず、わが国の歴史に現れた自然の大きな法則「上下階級の顛倒(貴賎交替の思想)」があり、これが歴史の自然法であったと説くことからはじめた。 そして、徳川家康の威徳を欽仰することでは、家康出生・成長の中に「貴賎交替の思想」があると正史に疑問を投げかけたのだ。 簡単に言えば、勝者が都合が良いように歴史を改ざんしたということである。 すなわち、戦国時代の乱戦時の歴史は、天下統一を取り、江戸幕府をつくった徳川家康、その家臣が都合よく捏造したのではないかと村岡は疑い、この改ざんは、日本の歴史で度々行われていることであるとし、平安・鎌倉・室町などの政権を取った人物たちを取り巻く伝記・史実にメスを入れた初めての人物であるのだ。
 家康影武者説の大胆な説を下記のように発表している。
「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。 桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。 そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである。」*徳川家康の前名は松平元康。
 この家康の影武者となった世良田二郎三郎元信は、本名を酒井浄慶という願人坊主(妻帯肉食を許された坊主)だったのではないかと仮説だてている。 更に、この人物の母は家康の母とされる伝通院(於大の方)とし、父は広忠ではなく、時宗の祈祷僧の江田松本坊ではないかという。 伝通院は兄の水野信元が信秀についたため、今川の誤報をさけるために広忠と離縁し、後に久松俊勝と再婚するのだが、その間に儲けた江田との間の子が、家康の影武者となる人物ではないだろうかとしている。
 松平元康(本物の徳川家康)は1560(永禄3)12月5日織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻をしていた尾張守山において、阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたのではないかという(史実では、この時に暗殺されたのは家康の祖父の清康とされている)。 しかし、当時の松平(徳川)の三河は、尾張の織田信長と甲斐の武田信玄に挟まれており、元康(家康)の子の信康は3歳ということもあったため、家臣団は、母が同じで顔立ちも似ていたことから、替え玉として世良田二郎三郎元信と挿げ替えたのではなかろうかとしている。これが本当であれば、本物の徳川家康は享年20歳で没したこととなる。
 その他にも村岡は家康の影武者は何人かいたとし、その謎の解明の仮説を立てている。 例えば、「大坂夏の陣」の際に家康は真田幸村に討ち取られたとするものがあげられる。 家康の死が広まれば混乱になると予測し、幕府安定のために異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政が影武者となり、家康の代行をさせたという説がある。 家康の墓も各地に点在し、家康は本当に一人だったのかと疑わしい点も多数あるが、現在をもって、全てが謎のベールに包まれている。

<影武者徳川家康など>


関連リンク:

村岡祥太郎

今川時代再発見:歴史の真相 二人の家康



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