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むらおか しょうたろう

村岡祥太郎

むらおか しょうたろう

1881(明治14)〜 1940.10.3(昭和15)

大正・昭和期の音楽家、作曲家

埋葬場所: 7区 1種 9側 20番

 東京出身。父は官吏、教育者、民間史論家の村岡素一郎(同墓)の長男。雅号は楽童。音楽活動は「村岡楽童」と名乗る。
 1901(M34)東京音楽学校を卒業し、天津で音楽教師となる。大速の小学校の講堂で、バイオリンの独奏会を聴いたのがきっかけで、'14(T3)関東庁(日本の租借地・関東州の統治機関)学務課の嘱託に任命され、大連に移住。荷州音楽会の重鎮となった。
 '15.12 満州鉄道の嘱託になり、満鉄ヤマトホテル管弦楽団が設立されるや楽長に就任。メンバー 6名ほどを率いて、毎晩ヤマトホテルで演奏を行った。また満鉄関係者の妻子が合唱を学ぶ集まりでも指導を行った。その後、大連高等音楽学校長を務める。『満蒙』などの雑誌で多くの作品を発表し、'24-'25 の間はほぼ毎月のように村岡が作曲した童謡が掲載された。
 '34(S9)清朝最後の皇帝の溥儀(宣統帝)を執政として建国された日本の傀儡国家である満州国が誕生した際には、日本作曲界の大御所の山田耕筰らと満州国国歌(満州唱歌)の制作に参加した。参加した高津敏、園山民平、村岡が作曲した「二番目の満州国家」なるものもある。
 村岡ら多くの日本人音楽家が満鉄の保護の下、充実した音楽活動を展開した。音楽関係者たちは自由な雰囲気のなか、気ままに才能を生かすことができた。しかし、のち大連での活発な音楽活動は「自由主義的なものの残津」と言われ、それに対し、首都新京で成立した新京音楽団がインテリ層が求める政府のための音楽「全体主義的なもの」だと讃える現象が起きた。さらに、'37 鉄道付属地の行政権が満鉄から満州国へ委譲されると同時に、学校経営も、教師の身分も満鉄から離れた。
 '07 中国に渡り、'39 帰国するまで、32年間(大連は25年間)の中国(天津・満州)での活動を終えた。享年59歳。

<「満州国」における日本人の西洋音楽の足跡 高橋裕子>


墓所 墓誌

*墓石は和型「村岡家之墓」、裏面「昭和十八年十月三日 村岡正三郎 建之」。墓所左側に墓誌が建つ。俗名・歿年月日・行年が刻む。村岡素一郎には号「公融」が刻む。村岡祥太郎には雅号「楽童」が刻む。息子で墓所建立者の村岡正三郎(H9.10.8歿・行年84才)、村岡順四郎(S17.9.17・行年27才)は「海軍飛行曹長 ニューギニア歿」ある。「正四位 従四位 勲三等瑞寶章」と刻む村岡五郎(1916.9.21-1986.11.30)は北海道帝国大学農学部卒業後、獣医学者として活躍した人物。


*唱歌教科書(三)に載せられた歌
人形」  作詞者 不詳 作曲者 村岡祥太郎

粗末(そまつ)にするなと 母上(ははうえ)の
 仰(おお)せ給(たま)いし この人形(にんぎょう)
 着物を着せて 帯(おび)締(し)めて
 箱の御殿(ごてん)に すわらせん

着物は緑 帯は赤
 模様(もよう)は松に こぼれ梅(うめ)
 泣(な)くなよ泣くな お休(やす)みの
 日には花見(はなみ)に 連れ行(ゆ)かん

あばれる鼠(ねずみ) じゃれる猫(ねこ)
 人形の家を 破るなよ
 学校すみて 帰るまで
 持てや我身(わがみ)を おとなしく


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