肥後の国(熊本県)竹部出身。肥後藩士の子として生まれた。幼名は栗田亀雄。
栗田家が関が原の戦いにて西軍の敗将になり、宇喜田秀家の後裔であることから、浮田姓を名乗る。
4歳の時、亀雄という名も和民と改めた。
1871(M4)熊本洋学校に入学し、指導者リロイ・ランシング・ジェーンズの薫陶を受ける。
1876洋学校の生徒35名(熊本バンド)が熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め、人民の蒙を啓くことを誓約した。
ここに署名をした人物は、浮田をはじめ、横井時雄、海老名弾正(12-1-7-18)、金森通倫(15-1-13)、徳富蘇峰(6-1-8-13)らがいた。
同年、ジェーンズから洗礼を受ける。洗礼名はトーマス。しかし、熊本は保守的な風土で洋学校に対する風当りは強くなり、生徒の多くは新島襄の開校間もない同志社に転校した。洋学校は翌年閉校。同志社英学校最初の卒業生となる。
1880(M13)「六合雑誌」創刊に参与、評論活動をはじめ、自由民権的な議論を展開、教育勅語発布にあたって「道徳は上帝の命令によるにあらず」と主張した。
1892アメリカに渡り、二年間、エール大学で史学・政治学を学ぶ。帰国後、同志社教授となり政治学、国家学、憲法の講義を担当。
1897アメリカン・ボードと同志社の分離独立問題をめぐる学内紛争により同志社を辞職。この背景は、浮田が「六合雑誌」にて「外国人宣教師論」で外国人宣教師を厳しく批判したことが、同志社の外人教師の激昂を買ったことに始まっている。
同志社辞任後、同志社の先輩であった大西祝の推薦により東京専門学校(早稲田大学の前身)講師として移籍、法学博士の学位を受け教授となり、文学部史学科教務主任、初代の図書館長、東京高等師範(教育学部)部長を歴任。
文学部、政経学部で西洋史学、政治学を講じた。早稲田大学では44年間にわたり同大学の発展に寄与した。
特筆すべき点は、山田一郎、高田早苗、安部磯雄らと共に早稲田政治学の基礎を形成しただけではなく、大隈重信のブレーンとしても高く評され、坪内逍遥は浮田を「早稲田の至宝」と呼んだ。
また1909〜1919(M42〜T8)雑誌「太陽」の主幹として活躍し、「内に立憲主義、外に帝国主義」という自由主義的・民主主義的主張は当時の学生・知識人に大きな影響を与え、民主主義の主唱者である吉野作造(8-1-13-18)は浮田の影響の下から出てきたとされる。
そのため、民本主義につながる理論の最初に提唱者とされ、大正デモクラシーの先駆的な役割を果たした。
浮田の主張は「政体上の民主主義は君主国家と調和する」として、民意を反映する政体の必要を説くもので、選挙権拡張・比例代表制などを主張し、社会主義には対抗的で労資協調をこととしたが、労働者・婦人に同情的な社会問題の解決を説いた。
対外的には平和的帝国主義・朝鮮同化政策を説いた。
主な著書に、『西洋上古史』(1899)、『政治原論』(1907)、『倫理的帝国主義』(1909)、『日米非戦論』(1925 渡邊金三共著)など多数。
没後に追懐編纂委員会編で『浮田和民先生追懐集』(1948)がある。享年85歳。
和民と妻の末との間に5男4女を儲ける。多くの子供達が早死しており、二男の秀樹が家督を継ぐ。子供達全員が同墓所に眠る。
和民の三女の東の長男は洋画家の浮田克躬(同墓)である。日本麦酒支配人の石光真澄、陸軍少佐・諜報活動家の石光真清、陸軍中将の石光真臣(3-1-8-1)、大日本麦酒常務の橋本卯太郎に嫁いだ真津(マツ)の兄弟たちは従兄弟にあたる。
なお真清の娘の菊枝の夫は法学者の東季彦(10-1-1-16)。真津の息子は政治家の橋本龍伍。孫は首相を務めた橋本龍太郎、高知県知事の橋本大二郎。