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いしみつ まおみ

石光真臣

いしみつ まおみ

1870.6.7(明治3.5.9)〜 1937.12.8(昭和12)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 3区 1種 8側 1番

 肥後国託摩郡本山村(熊本県熊本市)出身。細川藩産物方頭取の熊本藩士の石光真民の子。兄の石光真澄は熊本洋学校から三井物産社員、恵比寿麦酒支配人になった実業家。次兄の石光真清は志士的人物で、陸軍大尉の時に自ら予備役に入り(最終階級は少佐)、大陸浪人として日露戦争やシベリア出兵時を通じて諜報勤務に従事し軍の作戦に貢献。日本文学史上に名を残す自伝四作(城下の人・望郷の歌・曠野の花・誰のために)を残した。叔父(父の末弟)の野田豁通は函館戦争軍監・青森県初代知事・陸軍経理組織の創設者・男爵。伯父(母の兄)の栃原知定は時習館居寮生から江戸昌平黌に学び時習館訓導、熊本師範学校教諭兼熊本県立中学校長。従兄に政治学者の浮田和民(4-1-25)、政治家の林田亀太郎、工学博士で大阪ガス社長の下村孝太郎がいる。
 陸軍幼年学校を経て、1890.7.26(M23)陸軍士官学校卒業(1期)。同期に宇垣一成(後に大将:6-1-12-1)、石坂善次郎(後に中将:10-1-6)、市川堅太郎(後に中将:24-1-56)、緒方多賀雄(後に中将:21-1-27)、児島惣次郎(後に中将:2-1-3-10)、岩崎初太郎(後に少将:21-2-84)らがいる。翌年.3.26砲兵少尉に任官。1900.12.20陸軍大学校卒業(14期)。同期に井上幾太郎(後に大将:12-1-7)、津野田是重(後に少将:7-2-14-13)らがいる。翌年、砲兵少佐・野砲第15連隊大隊長となる。'02参謀本部員。翌年から台湾の基塞参謀長、ドイツ留学。
 '04第10連隊大隊長として日露戦争に出征。'05旅順要塞参謀、'06.2.13下関要塞参謀、'07.12.21野砲第8連隊長をへて、'10.12.23大佐に昇格し、'11第10師団参謀長に就任した。'13.8.22(T2)才能を買われ参謀本部支那課長に転属され、'15.1.25参謀本部欧米課長、'16.5.2少将に進級し、支那駐屯軍司令官に補され、'18.6.10憲兵司令官を経て、'19.7.25中将に累進し、'20.8.10馬政長官、'22.10.20第1師団長を歴任した。
 '25.5.1待命、同.5.25予備役となった。小兵ながら盤石にして動ぜず、肥後魂と卓越した識見を持った逸材であった。中国通、また軍事教練の発案者として知られる。軍縮のため大将に親任されなかったという。従3位 勲1等 功4級。享年67歳。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>


墓石/側面

*墓石は和型「石光家之墓」。右面に「陸軍中将 従三位 勲一等 功四級 石光眞臣」と没年月日が刻む。妻はツル(「眞臣 妻 ツル」と並列して刻む)。ツルの父は国光印刷社長を務めた実業家の橋本忠次郎。左面に「大正十四年十月一日 石光眞臣 建之」と刻み、その横から左面から裏面へと墓誌となっている。左面には眞臣の四男の弘臣、四女の富美子、長女の村田真寿恵(夫は村田重夫)、三男の正臣が刻む。裏面は長男で実業家の石光眞守、すゑ(眞守の妻)が刻む。


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