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こじま そうじろう

児島惣次郎

こじま そうじろう

1870.1.9(明治2.12.8)〜 1922.10.18(大正11)

明治・大正期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 2区 1種 3側 10番

 岡山県出身。長野六三郎の三男として生れる。旧姓は長野。1877(M10)陸軍少尉の児島滋胤の養子となる。
 1890.7.26(M23)陸軍士官学校卒業(1期)。同期に宇垣一成(後に大将:6-1-12-1)、石坂善次郎(後に中将:10-1-6)、石光真臣(後に中将:3-1-8-1)、市川堅太郎(後に中将:24-1-56)、緒方多賀雄(後に中将:21-1-27)、岩崎初太郎(後に少将:21-2-84)らがいる。翌年.3.26 少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1893.11.27 陸軍大学校に入るも日清戦争のため、1894.7.24 中退して歩兵第8旅団副官として出征。戦後、1896.2.29復校、1898.12.27 陸軍大学校(12期)を主席で卒業した。
 参謀本部出仕、参謀本部員から、独逸公使館付武官補佐官としてドイツ駐在の際に留学。軍政を研究し陸軍の軍政通を以て知られた。帰国後、参謀本部員 兼 山縣有朋元帥付副官となる。山縣元帥の副官時代は在郷軍人団組織を献策し、また山梨陸軍大臣を支えて軍縮を断行するなど幾多の軍制改革を行った。陸軍省軍務局御用掛も歴任する。
 1905.12.28 陸軍大学校教官を経て、'08.12.1 大佐に昇進した。同.12.21 参謀本部編制動員課長、'13.2.24(T2)近衛歩兵第3連隊長、'14.8.8 少将に進級し、歩兵第30旅団長に就任した。'16.3.24 陸軍歩兵学校長、'17.8.6 参謀本部第4部長、'18.7.24 中将に累進し、同.7.28 朝鮮軍憲兵隊司令官となり、朝鮮総督府警務総長を兼務した。
 '20.7.29 サガレン州派遣軍司令官に着任。同.11.1 勲1等旭日大綬章受章。'21.6.15 教育総監部本部長を務めた後、'22.5.13 陸軍次官に就任したが、半年後に在任中に現職にて逝去。享年52歳。正4位 従4位。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本人名大事典など>


墓所 墓誌碑

*墓石は和型「陸軍中将兒島惣次郎之墓」、裏面「大正十一年十月十八日薨去」と刻む。墓所右側の墓石側に「兒島滋胤母子之墓」と題した墓誌碑(書は宇都宮紀綱、誌は中岡黙)が建つ。その右側に「合葬於兒島惣次郎之墓」と刻む墓誌が建つ。墓誌には義徳の長男の與徳(S3.11.5歿)の刻みから始まる。次は「陸軍騎兵中尉 従七位 兒島武徳」(S7.3.12歿・行年33才)、「惣次郎 妻 兒島盛」(S26.8.9歿・行年70才)、「従五位 勲三等 児島義徳」(S57.10.22卒去・84才)、「義徳 妻 児島充子」(H17.2.28歿・行年99才)。なお、惣次郎の長男の義徳以降は「児島」と刻むが、それ以前は旧漢字「兒島」で刻む。


*児島滋胤(しげたね:1857-1880.7.30 同墓)は岡山藩士族。1870(M2)岡山藩の砲兵術や学英書を学び、1874.3 陸軍教導団生徒になり、1875.10 陸軍軍属。1876.3 免本官、陸軍士官学校生(旧1期)になる。1877(M10)同郷で友人の長野一生の弟の惣次郎を養子とする。1878「西南之役(西南戦争)」に砲兵科の見習士官属として従軍。大阪鎮台など各地転戦。同.4 陸軍少尉試補、同.9 陸軍少尉に任官。1879.11 砲兵科卒業。1880.2 東京鎮台砲兵第1大隊第1中隊第6小隊長に就任したが、同.7.20 病没。学術優等で秀才の誉れ高く将来を嘱望されていただけにその死は惜しまれた。享年22歳。惣次郎の兄の長野一生と児島滋胤の母は東京に駆けつけ、武蔵国北豊島郡谷中村(東京都台東区谷中)に埋葬(後に多磨霊園のこの地に改葬)した。10歳だった惣次郎は児島滋胤の母に育てられた。

<墓誌碑より>


*児島義徳(よしのり 1982.10.22没)は、惣次郎の長男。陸軍士官学校卒業(32期)。同期に皇族で中将となる賀陽宮恒憲王らがいた。岐阜第2航空教育隊長などを務めた陸軍大佐。従5位 勲3等。


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