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つのだ これしげ

津野田是重

つのだ これしげ

1873(明治6)〜 1930(昭和5)

明治・大正期の陸軍軍人(少将)、代議士

埋葬場所: 7区 2種 14側 13番

 熊本県出身。陸士6期/陸大14期(優等)。1904(M37)乃木に気に入られれ第三軍編成と同時にフランスから呼び戻され、第三軍最年少参謀(司令部・当時は大尉)となる。 エリート街道を進んでいたが、いろいろな逸話を残し、頭が良すぎたために大正8年少将になったとたん陸軍辞めさせられる。のち、衆議院選挙に立候補し当選した。政友会に属し、また枢密顧問官を任ぜられた。 津野田の武勇伝的逸話は数多く残されている。司馬遼太郎は「日露戦争中、天才と呼べる人物は最高位で児玉源太郎(8-1-17-1)、最下位で津野田是重であったかもしれない。」と書いている。
 乃木第三軍作戦参謀での逸話 : 参謀中では一番若い。若いだけなら良いのだが、乃木司令官に向かって「以後、作戦には口を出さないで下さい!」と言った。 ちなみにこの後、横で聞いていた伊地知参謀長に別室に連れていかれてさんざんに叱られる。 頭が良く早熟系のエリートだが、「日本人には珍しく明朗な青年将校」と、イギリス軍観戦武官のハミルトン中将に評される程、明朗な人物。加えて、率先して前線に出て、敵地視察を行ったという剛胆な人物という話もある。
 奉天会戦の際、彼が出向した第一師団で大々的な潰乱が起こるのだが、まごまごしている機関砲(銃)担当の指揮官に代わって自ら軍刀を抜いて指揮し、前線ロシア軍を退却させたという話がある。 参謀に指揮権はなく、彼のこの行動はのちの参謀達の勝手振る舞いの先駆けになったといわれ、非難される。しかしこの「勝手振る舞い」が、第一師団を全滅の危機から救ったと言って良いだろう。 このときに彼が発したとされる言葉、「一斉に薙げぇっ!」が軍事用語「薙射(ていしゃ)」の語源とされる。

<帝国陸軍リーダー総覧(秋田書房)>
<日本陸軍将官総覧(別冊読本)>


*薙射→主に機関銃に使われる用語。銃身を左右に振って撃つこと。


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