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かなもり つうりん

金森通倫

かなもり つうりん

1857.8.15(安政4)〜 1945.3.4(昭和20)

明治・大正・昭和期の牧師

埋葬場所: 15区 1種 13側

 肥後国玉名郡小天本村出身(熊本県玉名市)。金森繁蔵の次男。別名はポール・カナモリ。
 1872(M5)熊本洋学校の第二期生として入学。ジェーンズ,L.L.の影響を受け、1876花岡山奉教結盟に参加。 同年、同志社に入学し、新島襄から受洗。1880アメリカン・ボード宣教師の協力を得て創立された岡山教会の牧師としての按手礼を受けて初代牧師に就任。 1885『基督教三綱領』を著す。1886同期生の横井時雄に続いて同志社に教師として招かれた。 病弱な新島校長に代わって1887同志社教会牧師、1888同志社社長代理、1889同志社社長に抜擢され、新島の後継者としての地位を確かなものとした。 また、この頃から実業の才を発揮し、「一銭講」「二円講」を生み出し、新島襄の大学設立の夢に募金活動などで大いに貢献した。 1890新島が死去するや、衆目は金森が後任で一致していたが、新島が残した遺言書に金森の性格や人格に係わる事柄を言及していたため、金森ではなく、山本覚馬を臨時社長に据え、すぐさま小崎弘道(8-1-7-1)が社長に就任した。 なお、新島の遺言書を臨終の床で書き取ったのは徳富蘇峰(6-1-8-13)である。1889金森は同志社を追われ、1890東京番町教会牧師となるも、翌年辞任した。
 1892『日本現今之基督教並ニ将来之基督教』を著し、新神学の旗手となったため、日本組合基督教会を脱会。1892自由党に入党し、「自由新聞」主筆などに関係するが、1893脱党。三井鉱山、武相鉄道等の実業に従事。また、全国的に貯蓄遊説(貯金のすすめを推進)などもした。
 1912(M45)妻の小寿(旧姓西山)の没後、回帰して組合教会に復帰した。1914(T3)山室軍平(15-1-11-1)の救世軍入隊。 '27(S2)中田重治(19-1-3)の東洋宣教会日本ホーリネス教会に入会し、「神・罪・救」の三綱領を説く「金森伝道」を展開するなど積極的に活動をした。 しかし、'33救世軍もホーリネス教会からも脱会して、湘南の嶺山に隠居して洞窟生活を送り、今仙人と称された生活後、福島県郡山で没した。享年89歳。金森太郎編『回顧録』1957がある。
 次男の金森次郎(同墓)は実業家、三男の金森五郎(同墓・分骨)は(財)金森和心会 雲雀ヶ丘病院初代院長になった医師。 四男の金森九郎(同墓)は製鉄技師で原色押花の創案をした人物。 長女の三寿は、ジャパンタイムスの社長、国際ロータリーの会長、国際基督教大学初代理事長の東ヶ崎潔(1895-1992)に嫁いだ。 その長女の恵美子は経済学者で都市問題研究家の柴田徳衛に嫁いだ。五女の寿々枝は理学博士の浜健夫に嫁いだ。

<コンサイス日本人名事典>
<日本キリスト教総覧など>


墓誌

*墓所内墓石は和型であり、前面に「金森家之墓」、右面に「金森小壽之墓」と刻む。墓誌もあり、名前を見ることができる。

*通倫は「みちとも」とも読む文献もある。


【金森家の家系図】
金森家の家系図

*長男の金森太郎(同墓)は内務官僚。太郎の長女の和子は 建設官僚出身で鳥取県知事や自治大臣を務めた政治家の石破二朗(1908~1981)に嫁ぎ、その子は小泉内閣・福田内閣で防衛庁長官(防衛大臣)、麻生内閣で農林水産大臣を務めた政治家の石破茂である。


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