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なかだ じゅうじ

中田重治

なかだ じゅうじ

1870(明治3.10.27)〜 1939.9.24(昭和14)

明治・大正・昭和期の牧師、ホーリネス教会創始者

埋葬場所: 19区 1種 3側

 青森県弘前市北新寺町出身。津軽藩士の中田兵作、千代の3男として生まれる。4歳で父を失う。後のメゾシスト教会牧師となる長兄の中田久吉が陸軍教導団に入り、母とともに生活を支える中で育つ。母の勧めでキリスト教講義所(弘前教会)に行き、当時牧師をつとめていた本多庸一(4-1-35-1)の感化をうける。のち宣教師のG.F.ドレーパーから受洗。
 東奥義塾に学び、東京英和学校(青山学院)に学んだが、勉学より柔術に凝り成績不良で退学となる。しかし院長に転身していた本多庸一の温情により伝道者の仮免許状を与えられる。メゾシスト教会で働き、千島の択捉島で伝道中、1894 按手礼を受ける。同年、伝道師の小舘かつ子(同墓)と結婚。
 人間的な力による伝道に限界を感じて、聖霊の力による伝道を求めて、1896 渡米。シカゴのムーディ聖書学校に留学、同市在住のチャールズ・カウマン夫妻とメソジスト教会で知り合い、カウマン夫妻は中田の支援者となった。1897 インドのタミール人の伝道者 V.D.ダヴィッドの説教集会で聖霊による心身の潔めを体験。翌年、ムーディ聖書学校の短期コースを終えて帰国し、全国への巡回伝道を始める。この頃、松江に B.F.バクストンを訪ね、笹尾鉄三郎ら「小さき群」の人々と交わる。1899「焔の舌」誌(のち「聖潔の友」と改題)を創刊した。
 帰国後もカウマン夫妻とは文通を通して信仰を深めていた。1900.8.11 カウマンが「中田を助けて日本伝道をすべし」との召命を受け、妻のレテーに告げると、妻も6週間前に同じ召命を受けていたことが判明し、カウマン夫妻は日本伝道を決め、翌年来日する。
 1901 東洋宣教会の創立以来協力しながら伝道活動をしていたが、牧師と伝道館が増えることにより、教団の組織運営や利権の問題で対立するようになり分裂した「聖教団事件」が起こる。聖教団事件とは中田重治ら日本人側「日本聖教会団」とアメリカ人宣教師側「東洋宣教会」の分裂事件のことである。これを機にメソジストを脱退。どこかに伝道館を設立したいと考えていた時に、カウマン夫妻が来日することになる。
 '01.2.22 カウマン夫妻が横浜港に着くと迎えに行き再開。さっそく伝道館建設の相談をした。新しい建物を作る資金がないので、東京市内の建物見物をすることになった。雪の降る日に神田神保町を歩いていると、中田は「神田とは、神の田という意味で、神保町とは神が保つという意味ですよ」とカウマンに話したところ、「きっとここに神様が備えていてくださるでしょう」と言って祈った。すると神田神保町十番地に二階建ての廃校を見つける。クリスチャンであった中国人が私塾を開いていたが交渉をし、年間240ドルの家賃で借りることができた。ここに「中央福音伝道館」を設立した。
 翌年、伝道者育成のための聖書学校を開設。淀橋柏木にも柏木聖書学院を開校した。盛んな伝道活動を進め、山形県に最初の地方伝道館が設立され、宇都宮、横浜、伊豆と次第に各地に支部が開かれていった。'05.11「東洋宣教会」の名を用いた。'11 妻の かつ子が死去。今井あやめ(同墓)と再婚。
 '17.10(T6)東洋宣教会ホーリネス教会(ホーリネス派)を組織しその初代監督となる。その宣言書には〈派生・聖化・神癒・再臨〉のいわゆる「四重の福音」とし、リバイバル運動を展開。翌年から内村鑑三(8-1-16-29)、木村清松らと提携して再臨運動を全国的に展開、キリスト教界にセンセイションをまきおこした。著書に『聖書より見たる日本』(1932 講演筆記)を出す。
 '32(S7)千年王国のときユダヤ民族を中心とする民族の救いが実現すると説いたことをきっかけに、日本ホーリネス教会内部の分裂事件に発展していくことになる(ホーリネス分裂事件)。'36 中田は自派を「きよめ教会」と称し、その終身監督となり、もう一方は「日本聖教会」となり分派した。これにより日本ホーリネス教会は消滅した。ホーリネス運動を共にしてきた牧師の松野菊太郎(15-1-17)らは中田に同調したが、分派側には長年共にした牧師の小出朋治(6-1-6)らは袂を分けた。
 '35頃から病のため休養がちとなり、'39 東京柏木の聖書学院内の自宅において、後妻の あやめ の死後10日目に逝去。享年68歳。葬儀では中田に影響を受けた陸軍少将・基督教伝道者の日疋信亮(12-1-17)が弔辞を行った。多磨霊園に眠る中田に影響を受けた基督教伝道者や牧師は、金森通倫(15-1-2)、梅森豪勇(23-1-60)らがいるが、敵も多く、植村正久(1-1-1-8)らは山師と呼んで嫌っていた。なお長男は教会音楽の基礎を築いた中田羽後(同墓)。

<キリスト教人名辞典>
<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>
<日本「キリスト教」総覧>


墓所

*洋型「中田家之墓」に十字架と「我らはことごとく眠るにはあらず 終の喇叭の鳴らん時みな忽ち瞬く間に化せん」と刻む。右面「昭和十七年九月 中田羽後 建之」。裏面が墓誌となっている。墓誌は重治の前妻の中田かつ(M44.3.4入瞑・43才)、次に後妻の中田あやめ(S14.9.14入瞑・59才)、そして、後妻が亡くなった10日後に亡くなった中田重治が刻む。次に重治弟子と刻み竹田ゐ津(S18.8.7入瞑・83才)も眠る。重治の長男は中田羽後、羽後の妻は中田あさ(H14.12.3入瞑・101才)。羽後の長男は中田祐治。墓石の右に並んで「中田重治先生之碑」と刻む石柱が建ち、右面に「明治中葉より大正昭和にかけて聖書的純福音を掲げ平明熟烈奇智縦横の説教もて宣教に盡粹せられし、中田重治先生。一方東京聖書学院を創立して幾多の後続を育成して世に送られ今や福音奉仕に任じて立つ者国の内外に甚多い」と刻む。


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