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なかだ うごお

中田羽後

なかだ うごお

1896.9.9(明治29)〜 1974.7.14(昭和49)

昭和期の作詞家、教会音楽家、牧師

埋葬場所: 19区 1種 3側

 秋田出身。父で牧師の中田重治と、母で基督教伝道師のかつ子(共に同墓)の次男として生まれた。兄(長男)は生後1ヶ月で亡くなったため、羽後が後を継ぐ。 当時、重治とかつ子は秋田大館にて伝道活動をしていたこともあり、羽後の国にちなんで羽後と名づけられた。
 青山学院中学部卒業後、アメリカのムーディ聖書学院などで音楽と神学を学ぶ。帰国し、聖書学院、青山女学院高等部などで教鞭をとり、その間、父の編集した『リバイバル唱歌』(1909)を増補した福音唱歌集『リワイワル唱歌』(1932)を編集した。
 太平洋戦争後、東京三宅坂にあった在日アメリカ軍チャペル・センター音楽主任となり、その経験をいかし、'58(S33)『聖歌』を編集し日本福音連盟から出版した。'60 森山諭牧師と荻窪栄光教会を開く。
 日本を代表する教会音楽の基礎を築いた権威者として活動し、多くの讃美歌、福音唱歌の翻訳、作詞、作曲があり、教会の礼拝で歌われる聖歌の編纂者としても知られた。 日本基督教団讃美歌委員会編集の『讃美歌・讃美歌第二編』には「カルバリ山の」「シャロンの花」「キリストにはかえられません」の訳詞が収められている。 『パラパラおちる』(作)なども代表作。享年77歳。

<キリスト教人名辞典など>


墓所

*洋型「中田家之墓」に十字架と「我らはことごとく眠るにはあらず 終の喇叭の鳴らん時みな忽ち瞬く間に化せん」と刻む。右面「昭和十七年九月 中田羽後 建之」。裏面が墓誌となっている。墓誌は重治の前妻の中田かつ(M44.3.4入瞑・43才)、次に後妻の中田あやめ(S14.9.14入瞑・59才)、そして、後妻が亡くなった10日後に亡くなった中田重治が刻む。次に重治弟子と刻み竹田ゐ津(S18.8.7入瞑・83才)も眠る。重治の長男は中田羽後、羽後の妻は中田あさ(H14.12.3入瞑・101才)。羽後の長男は中田祐治。墓石の右に並んで「中田重治先生之碑」と刻む石柱が建ち、右面に「明治中葉より大正昭和にかけて聖書的純福音を掲げ平明熟烈奇智縦横の説教もて宣教に盡粹せられし、中田重治先生。一方東京聖書学院を創立して幾多の後続を育成して世に送られ今や福音奉仕に任じて立つ者国の内外に甚多い」と刻む。


 教会音楽に生涯を捧げ、多くの基督教音楽を作詞したが、その中で誰でもご存知の曲がある。それがチェコスロバキア民謡を訳した『おお牧場はみどり』である。

『おお牧場はみどり』
作詞: 中田羽後 チェコスロバキア民謡

1.おお牧場はみどり 草の海 風が吹く
  おお牧場はみどり よく茂ったものだ(ホイ)
   雪が解けて 川となって
   山を下り 谷を走る
   野をよこぎり 畑をうるおし
   よびかけるよ わたしに

2.おお聞け歌の声 わこうどらが歌ううた
  おお聞け歌の声 晴れた空のもと(ホイ)
   (以下同じ)

3.おお仕事は愉快 山のように 積み上げろ
  おお仕事は愉快 みな冬のためだ(ホイ)
   (以下同じ)


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