メイン » » » 中田かつ子
なかだ かつこ

中田かつ子

なかだ かつこ

1869.7.31(明治2)〜 1911.3.8(明治44)

基督教伝道者、中田重治の前妻

埋葬場所: 19区 1種 3側

 青森県弘前出身。旧弘前藩士小館仙之助の二女。教育者を志し青森女子師範学校卒業。
 来徳女学校(弘前学院)の教師となり、弘前教会の相原英賢から受洗。横浜の聖経女学校に入り、卒業後弘前教会の伝道者となる。 1894(M27)8月山鹿元次郎の媒酌で千島択捉島で伝道していた中田重治(同墓)と結婚。その約一年後、風土病のため重態となる。長男の左内も罹病し、生後一か月で死亡。 上京していた重治が急遽帰島し、弘前で静養したのち、夫とももに秋田県大館に転任。ここで二男の羽後が生れた。教会創業時代の重治のよき協力者であり、ホーリネス教会の母といわれた。

<日本女性人名辞典>


墓所

*洋型「中田家之墓」に十字架と「我らはことごとく眠るにはあらず 終の喇叭の鳴らん時みな忽ち瞬く間に化せん」と刻む。右面「昭和十七年九月 中田羽後 建之」。裏面が墓誌となっている。墓誌は重治の前妻の中田かつ(M44.3.4入瞑・43才)、次に後妻の中田あやめ(S14.9.14入瞑・59才)、そして、後妻が亡くなった10日後に亡くなった中田重治が刻む。次に重治弟子と刻み竹田ゐ津(S18.8.7入瞑・83才)も眠る。重治の長男は中田羽後、羽後の妻は中田あさ(H14.12.3入瞑・101才)。羽後の長男は中田祐治。墓石の右に並んで「中田重治先生之碑」と刻む石柱が建ち、右面に「明治中葉より大正昭和にかけて聖書的純福音を掲げ平明熟烈奇智縦横の説教もて宣教に盡粹せられし、中田重治先生。一方東京聖書学院を創立して幾多の後続を育成して世に送られ今や福音奉仕に任じて立つ者国の内外に甚多い」と刻む。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・な行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。